日本基督教団 片瀬教会 付属片瀬のぞみ幼稚園 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
3月主題の聖句 「羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。 自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。 羊はその声を知っているので、 ついて行く。」 ヨハネによる福音書10章3~4節 園長 西 田 直 樹 2014年度の最後の月となりました。あっという間の一年間でしたが、 そこには笑う・泣く怒る・許す・がんばる様々のドラマがあり、成長の痕跡が くっきりと浮かび上がってきます。 振り返ってみると着実に心も体も大きくなったことを実感しています。 最後の聖句はヨハネによる福音書10章3~4節です。 「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を 呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。 羊はその声を知っているので、ついて行く。」 イエスさまの国ユダヤ民族は遊牧民族でした。 わたしたちがペットとして犬や猫をかわいがる以上に羊飼いは羊・山羊をかわいがり、 育てていました。それは生活の糧を得ることでもあったのです。 優雅な牧歌的雰囲気はあっても命がけで羊・山羊を守り、育て、育てていたのです。 その一例が夜、囲いに中に入れてあった羊を朝一頭一頭その名前を呼び、 連れ出したのです。もちろんその時、病気はしていないか、怪我をしていないか、 栄養状態はどうか目診したのです。 何百頭もいる羊に名前を付けて、その名を覚え、名前と顔とを一致させることができたのですから、 驚きです。11節で「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」ともあります。 羊を守り狼と戦い命を落とすこともあったのでしょう。 羊と羊飼いとは深い信頼関係で結ばれていたのです。 それは神様・イエスさまとわたしたちとの関係でもあるのです。 深い深い信頼関係で結ばれているのです。 幼稚園の子どもたちは時々「園長先生!」と呼びます。 別に用事があって呼んでいるのではなく、「私のこと見ていて」というアッピールなのです。 「ハーイ」と答えると安心してニッコリ。 名前を呼び合う関係それは互いの人格を認め合う関係です。安心できる関係です。 赤ちゃんは生まれてすぐは目は見えないのですが耳は聞こえています。 胎内の時から聞いていた母の声をちゃんと覚えているのです。 話しかけてくる母の声に安心してスヤスヤと眠ります。 名前を読んで下さる声、耳慣れた声、それは何にも勝る心地よさを覚えるのです。 声の響きは心の響きなのです。 わたしたちと神様・イエスさまとの関係はその様な関係なのです。 安心できる心地よい関係なのです。 今年度を閉じるにあたり、子どもと教師との関係がこのような深い深い信頼関係を 造り上げてきたのだろうか? 互いの人格を認め合う関係を結んできただろうか? 心地よい、安心できる関係を築き上げることができたであろうか? としきりに問い返す今日この頃です。 胸を張り大手を振って「はい、できました!」と答えられたら・・・と思います。 不十分、不完全、途上中、欠けの多い自分であったと反省しきりですが、 そんなわたしと神様は関係を結んで下さっている、 その事実に励まされて来年度もがんばろう!と思っています。 ありがとうございました。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2月主題の聖句 「あなたがたは、もっと大きな賜物を 受けるように熱心に努めなさい。」 コリントの信徒への手紙一12章31節 園長 西 田 直 樹 パウロはコリントの教会の信徒たちに「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるように 努めなさい」と勧めています。ここでの賜物とはカリスマのことです。 カリスマと言うと特別な能力や資質を持ち、人格的影響力・信服力を持った預言者とか 呪術師、英雄を思い起こします。 しかし本来はカリスマとはカリス(恵み)・カリゾマイ(好意)・カイロー(喜び)を語源として、 恵み・好意・喜びが神より与えられた者を意味していました。ですから特別な能力や資質の事 ではなく、どんな人も子どもも神様から恵みや好意や喜びを賜物として与えられています。どの 人も、子どもも賜物を神様から与えられ、合わせ持っているのです。しかしその賜物がみな同じでなく、 その人、子どもによって異なっているのです。 すなわち、あの人にあって、この子にはないことが普通なのです。ですから、あの人やあの子には ]与えられていて、自分や自分の子には与えらていないこの現実を羨ましく、妬ましく思い、 劣等感に落ち込む必要はさらさらないのです。 いろいろ異なって違っていてそれで良いのです。それぞれが支え合い、補い合って一致が 生み出されていくのです。特に弱いと言われる部分、劣っていると言われている部分、 見劣りがする部分が却って全体にとって必要不可欠な部分であり、そこを互いに助け合ってこそ 全体の喜びになっていくのです。 ] これは理想ではなく、子どもの世界からわたしたち大人が学び取らなければならない課題でしょう。 では「もっと大きな賜物を受けるように熱心に努めなさい」とはどういうことでしょうか。 「もっと大きな賜物」とは自分にないがあの人は持っている「もっと大きな賜物」が与えられるように、 またそれを獲得出来るように熱心に努力しなさいと言っているのでしょうか。 聖書では31節に続けて「そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます」と言って 13章以下で「愛」について語ります。「もっと大きな賜物」「最高の道」とはキリストによって 示し表していただいた「愛」のことです。 「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、 自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、 すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(13章4~7節)そのような愛が賜物として神様から ]与えられるように熱心に努めなさいと勧められているのです。熱心に祈り求めなさいと勧められているのです。 さて今年度は残すところ1ケ月半となりました。私どもは子どもの成長を願って熱心に祈り求めてきました。 ]しかし主イエスに教えて頂いた「愛」を子どもたちに増し加えてくださいと熱心に祈ってきただろうか、 この親である自分に「愛」を増し加えてくださいと熱心に祈ってきただろうか、振り返ってみましょう。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
片瀬のぞみだより(1月号) 日本基督教団 片瀬教会付属 片瀬のぞみ幼稚園 家庭通信2014.No. 22 1月主題の聖句 「見よ、兄弟が共に座っている。 なんという恵み、なんという喜び。」 詩編133篇1節 園長 西 田 直 樹 「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」詩編133編1節ですが、 口語訳聖書では「見よ、兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう。」となっています。 言葉を補って訳せば「見よ、なんと良いことか、そしてなんと楽しい、嬉しい、心地よいことか、 兄弟たちがしかも一緒に座り、住むとは。」 片瀬のぞみだより(1月号) 日本基督教団片瀬教会付属 片瀬のぞみ幼稚園 家庭通信2014.No. 22 月主題の聖句 「見よ、兄弟が共に座っている。 なんという恵み、なんという喜び。」 詩編133篇1節 園長 西 田 直 樹 「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」詩編133編1節ですが、口語訳聖書では「見よ、兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう。」となっています。 言葉を補って訳せば「見よ、なんと良いことか、そしてなんと楽しい、嬉しい、心地よいことか、兄弟たちがしかも一緒に座り、住むとは。」 「骨肉の争い」という言葉があるように親子、兄弟姉妹、叔父叔母間の確執があります。 最も近い血を分けた間柄であるのに争い、憎み合い、非難中傷し合い、訴え合っている、 そんな醜い姿を実際に見聞きするのです。 互いによく知り合い、共通点が多いのにそれだけに憎しみは深いのでしょう。 旧約聖書の創世記に出てくるアダムとエバの間に生まれた兄カインと弟アベル。 その兄カインが弟アベルを殺してしまったのです。殺した理由は妬みでした。 農夫のカインが献げた農作物より羊を飼うアベルが献げた肥えた初子を主なる神は目を留めたのです。 カインは激しく怒って顔を伏せ、アベルを野原に誘って殺したのです。 まさに人類初めての兄弟が妬みの故に弟を殺害してしまったことは その後の人類の歴史を物語るものでもあったのです。 わたしたちは急に台頭してきた黒い旗をはためかしている「イスラム国」 に不気味なものを感じています。その原点はイスラエルとパレスチナであり、 両者は兄弟同士ですが血で血を洗い合っています。 日本と韓国・朝鮮と中国は同じアジア・モンゴリアンであり共通点がたくさんあるのですが、 「近くて遠い国」であり、対立関係が続いています。 そのような中でまさに兄弟たちが共に座り、仲良く、助け合っているならば、 なんとすばらしい、なんと楽しい、嬉しい、心地よいことでしょうか。 異質なもの同士が一緒に座ることが案外可能なのですが、 同質なもの同士が一緒に座ることの方が難しいのです。 親子でも同じ気質を持っている親子とは対立し、性格や体格や好みが全く違う親子の方が 互いに受け入れ認め合っているのです。 なんと良いことか、そしてなんと楽しい、嬉しい、心地よいことかは最大級の喜びの表現です。 兄弟同士が平和であることが当たり前なことではなく、そこに神様の祝福が注がれているからこそ その祝福に感謝しないではおれないのです。 さて2015年を迎え、また本年度も残すこと二ケ月です。はと組みさんは小学校入学を強く意 識し始めます。 すずめ・ひよこ組みは進級を意識します。 親も教師も子どもたちの成長著しい雄姿を見て思わずほろりと涙が出る頃ですね。 本当に仲の良い仲間が与えら一生の友となる関係を持てることはななんと幸いなことでしょうか。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
片瀬のぞみだより(12月号) 月主題の聖句 「さあ、ベツレヘムへ行こう。 主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか。」 ルカによる福音書2章15節 園長 西 田 直 樹 早いものです! もう12月、クリスマスです。お店はもう既にクリスマス・モードです。 きれいな讃美歌の曲が聞こえてきます。今年もいろいろなことがありました。いやありすぎました。 広島の大雨による土石流や御嶽山の噴火による死者・行方不明者が出ました。 エボラ出血熱による感染者は約1万人、死者約5千人と全世界に蔓延する恐れがあります。 また長野で地震が起こり、片瀬にイノシシまでが出没しました!。 しかし、いやなことばかりではありませんでした。嬉しかったこと、楽しかったこと、 おかしかったことなど、たくさんありましたね。 このような中で子どもたちがたくましく成長していることは本当に感謝なことです。 そして子どもたちにも大人にも、高齢者にも主イエスの誕生を祝うクリスマスが訪れようとしています。 クリスマスはきれいに着飾って、おいしいごちそうを食べて、すばらしいプレゼントを貰う日ではありません。 それらがあってもいいのですが、肝心のイエス・キリストの誕生を覚え、感謝すると共に世界の平和・沈静化・十分な食物と住居と教育を祈り求める日なのです。 最初にキリストの誕生の知らせを聞いたのはベツレヘムの郊外で羊の群れを寝ずの 番をしていた羊飼いたちでした。 天使は言いました「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、 あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子をみつけるであろう。 これがあなたがたへのしるしである。」 真っ暗な夜空が突然明るくなり、天使が現れてそのように言ったのです。 驚いたことでしょう。びっくりしたことでしょう。怖かったことでしょう。 羊飼いの毎日の生活はただ草と水を求めて野原や砂漠を歩き回り、野宿を重ね、 夜は夜で獣から羊たちを守るために夜通し番をしなければならなかったのです。 天使・栄光・喜び・ダビデの町・救い主・メシアとは全く無縁な人々でした。 ただ親近感を覚えたことは飼い葉桶・布(おむつ)・乳飲み子であったことでしょう。 自分たちには無関係なことと思っていたのですが民全体に、あなたがたのためにと 自分たちのような者のために救い主・メシアが生まれて下さった。 その方は自分たちが日常見慣れている飼い葉桶、布(おむつ)・乳飲み子がしるしとなって生まれて下さった。 そのことを知った羊飼いはためらうことなく、直ちに「さあ、ベツレヘムに行こう。 主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」 と言ってダビデの町・ベツレヘムに急いだのです。 主の知らせを確かめるためではありません。既に喜びに包まれて、 大手を振って馬小屋の飼い葉桶の中に布(おむつ)にくるまれて寝ている乳飲み子を 自分たちの救い主・メシアとするために走って行ったのです。 羊飼いたちはマリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を捜し当てたのです。 そして見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行ったのです。 羊飼いたちは馬小屋の飼い葉桶の中に乳飲み子である救い主メシア・キリストを捜し当てたのです。 迷い、疑い、不信、不安と戦いながら捜し当てることが出来たのです。 そして神をあがめ、賛美しながらまた日常に帰って行ったのです。 それがクリスマスなのです。幼子イエスを捜し当てる旅を子どもたちと一緒にいたしましょう。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
月主題の聖句 「大地は作物を実らせました。」 詩編67編7節 園長 西 田 直 樹 北海道や青森から雪の便りを聞くようになりましたが、ここ湘南では 秋真っ盛りです。秋です、実りの秋です、「天高く馬肥える秋」です。 日本のすばらしいところは四季がはっきりしているところだとよく言われます。 神様はその四季を通して様々な恵みを与えて下さっていますが、 特に秋は様々な農作物の収穫を通して神の恵みを実感させて下さいます。 北海道にいた頃10月11月は盛んにジンギスカン(羊の肉)を食べました。 それはこれから寒い寒い(シバレル)冬に向けて脂肪を蓄えるのです。 石炭ストーブ(だるまストーブ)を使っていた頃はストーブを真っ赤に燃やして ランニング姿で汗を垂らしながらジンギスカンを食べたものです。 これから深い重い雪下ろしとの戦い、零下10度(最低30度を体験したことがありました!) に耐えるための下拵(したごしら)え・準備でした。 根雪になる前に農作物を地面に穴を掘って埋めます。 そして長い棒を立てておきます。それが自然の冷蔵庫でした。 12月・1月外に置いていたらたちまち凍ってしまうものが土に中で眠っていて、 ]大根などを雪をかけ分、土を掘って掘り出しいただくと、そのみずみずしさにうっとりしたものです。 外は2・3メートルの雪に埋もれながら4月の雪解けをじっと待つのです。 さて11月は飯島農園の畑にお芋を掘りに行きます。 春の遠足の時に芋苗を植えておいたものです。私たちは数回雑草を取りに行った程度でしたが、 飯島さんがちゃんと世話をしていて下さり、実りの収穫を体験させて下さり、 ]また焼き芋を畑で頬張ることが出来るのです。「神様、感謝・飯島さん、感謝です!」 「神よ、すべての民があなたに感謝をささげますように。すべての民が、 こぞってあなたに感謝をささげますように、」(詩編67編4節) ]私たちだけでない、どの国の民も皆一斉に感謝を捧げられるように平和を実現させて下さい。 感謝したくても感謝できない厳しい現実が世界の各地に現存していることをテレビ等で知らされていますが、 なかなか実感できないでいます。 「大地は作物を実らせました。神、わたしたちの神がわたしたちを祝福してくださいますように。 ]神がわたしたちを祝福してくださいますように。」(詩編67篇7節)とあります。 豊かな実りそのものが既に神様の祝福の結果ではないのか。 ]それなのに豊かな実りを与えられながら更に神様の祝福を祈り願うのは欲張りではないでしょうか。 いいえ、そうではないのです。豊かな実りを与えられ、感謝してそれを互いに分かち合い、 どんな国の人々もそれらにあずかって感謝し、平和に暮らすことが出来るならば、 神様の祝福を得ることが出来るのです。「神がわたしたちを祝福してくださいますように。」 との祈り願いは豊かな実りを互いに分かち合い、すべての民が感謝できるように努力をする 決意が秘められているのです。 この豊かな実りを体験させていただき、神様の恵みを実感させていただくと共に 神様の祝福をいただくことが出来ますように分かち合いをさせてください。 食べるものがない、着る服がない、寝る家がないそんな現実が世界のあちこちに 転がっていることを子どもたちに伝えましょう。 ]ただ言葉だけで伝えるのではなく、伝える側がどれだけ想像力を働かせ、 ]リアルに伝えられるかです。] 飽食の世界にあってかつてわたしたち自身がそうであったガキ(餓鬼)を覚えることです。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
10月主題の聖句 「わたしの舌がまだひと口も語らぬさきに主よ、あなたはすべてを知っておられる。』 詩 編139編4節 詩編139編1~6節はこのようになっています。 主よ、あなたはわたしを究め わたしを知っておられる。 座るのも立つのも知り 遠くからわたしの計らいを悟っておられる。 歩くのも伏すのも見分け わたしの道にことごとく通じておられる。 わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに 主よ、あなたはすべてを知っておられる。 前からも後ろからもわたしを囲み 御手をわたしの上に置いていてくださる。 その驚くべき知識はわたしを超え あまりにも高くて到達できない。 全知全能の神・オールマイティーの神と言いますが、全てのことをご存じであり、 全てのことを行うことが出来る方、それが神だと申します。 詩編139編の詩人はそのことを究める、知る、悟る、見分ける、通じる、囲む、 手を置く、超えるという動詞で表現しています。 神を知るとは自分が神によって知られていることを知ることだと言われています。 使徒パウロは「自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は、知らねばならない ことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。」 と言っています。「無知の知」「知られたる我」です。 言葉を発するには聞く、話す機能を働かせることですが、それ以前に話したいと言う 動機・刺激が必要であり、聞く、話す機能を動かす脳からの指令が必要です。 言葉が出るのは最後の最後なのです。 奴隷の地エジプトを脱出するリーダーに抜擢されたモーセはそれを固辞します. 「ああ、主よ。わたしはもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕にお言葉をかけてくださった 今でもやはりそうです。全くわたしは口が重く、舌の重い者なのです。」 そんなモーセに対して神は「さあ、行くがよい。このわたしがあなたの口と共にあって、 あなたが語るべきことを教えよう」と言われたのです。 言葉の全てに先立って神ご自身が全てを知り、共にいてくださり、必要な言葉を与え、導いてくださるのです。 面接の時、初対面の時、難しい交渉の時、求婚・求愛の時、言葉に窮することがありましたね。 舌が喉にひっつきそうで生唾を飲み込んでも声が出ない時がありましたね。 困難・艱難・苦難・悲しみの中から祈りの言葉が出てこない時もありますよね。 でもそんな自分を一番良く理解し、分かっていてくださり、祈る言葉を与えてくださる方が全能の神様なのです。 子どもが親に絶対的信頼を置くように私たちは座るのも立つのも知ってくださる 神様に絶対的信頼を置いて、日々感謝を持って生きていきたく願います。 前からも後ろからもわたしを囲み、御手をわたしの上に置いていてくださる神様に 信頼して歩めるこの月であることを願います。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
9月主題の聖句 「サムエルは答えた。『どうぞお話しください。 僕は聞いております』 サムエル記上3章10節 園長 西 田 直 樹 18世紀の英国J・レイノルズの絵画「少年サムエル」 は有名です。かわいい少年サムエルが一心に神さまに 祈っている姿を描いたものです。それは以下の聖書を 絵に描いたものと思われます。 父エルカナには妻ハンナとペニナがいました。 ペニナには子どもがいましたがハンナには子どもはいなく、 ハンナはつらい立場にいました。 ハンナは神殿でつらい立場を神さまに訴える長い長い 祈りをしていました。それを見ていた祭司エリはハンナが 酒に酔って祈っているものと誤解してハンナに注意をしたのです。 ハンナは自分は酒に酔っているのではないこと、 深い悩みを持っていることを説明して誤解を解いてもらいました。 「安心して帰りなさい。イスラエルの神が、あなた乞い願うことを かなえてくださるように」と祭司エリに言ってもらいました。 それからハンナは明るくなり、また子どもを身籠もり、 男の子を産んだのです。 それがサムエルでした。祈りをかなえていただいたお礼に 乳離れした息子サムエルを神さまに捧げ、祭司エリに託したのです。 サムエルは大きな神殿の中で祭司エリに一生懸命仕えたのです。 エリは年老いて目がかすみ、見えなくなっていました。 夜中サムエルは呼ばれている声を聞き、大急ぎで エリのもとに駆けつけ、「お呼びになったので参りました」と 言いました。エリは「わたしは呼んでいない。 戻っておやすみ」と言い、サムエルは戻って寝たのです。 しかしまたまた呼ぶ声が聞こえたので、 エリのところに走っていき「お呼びになったので参りました」と 言ったのです。エリは「わたしは呼んでいない。 戻っておやすみ」と言い、サムエルは戻って寝たのです。 三度目サムエルは呼ばれたので「お呼びになったので参りました」と 言いました。エリは呼んだのは自分でなく、主であると悟り、 「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。 僕は聞いております』と言いなさいと言われたのです。 主はサムエルを呼び、サムエルは答えた 『どうぞお話しください。僕は聞いております。」 祈ることはわたしたちの願い事を訴えることだけでなく、 むしろ「僕は聞きます。お話しください」と主に向き、 聞くことなのです。その様な祈りをもって2学期を始めましょう。 7月主題の聖句 「子供たちをわたしのところに来させなさい。 妨(さまた)げてはならない。」 マ ルコによる福音書10章14節 園長 西 田 直 樹 7月に入りました。2014年度一学期は7月18日(金)までです。 その後は長い夏休みに入ります。夏休みの諸注意を守って楽しくお過ごしください。 マルコによる福音書・マタイによる福音書・ルカによる福音書が同じく「主イエスが 子供を祝福する」という記事を扱っています。長短や用語の違いは多少ありますが、 ほぼ同じことを扱っています。 主イエスにとって、そして福音書記者にとって「子ども」はどうでも良い存在ではないのです。 その記事によると主イエスに触れて頂くために主イエスが話されている現場に親が 子供(乳飲み子)を連れてきたのです。その光景を見ていた弟子たちが叱りつけたのです。 たぶん「こんな所に子供を連れてくるなどは非常識だ」、「周りに迷惑を掛けることを考え ないのか」、「子供が来る場所ではない」と口々に言ったのでしょう。 行く手を立ち塞ぐ弟子たち、思わず子供を抱きかかえ後ずさりする親たち。 その時、主イエスは子供たち(乳飲み子)たちを呼び寄せたのです。 「おいで、おいで、こっちだよ」と招ねかれたのです。 大人の世界は子供を非情に締め出し、追い出し、排除するのです。 「ここはおまえたちの来るところではない!」「子どもは足手まとい、邪魔者、 迷惑者だ」と顔をしかめる大人の社会。 そこは整然とした、規律のある、秩序のある、常識に富んだ社会です。 しかし愛や思いやりや優しさはない世界です。大人の世界は弱肉強食の生活、 差別選別の世界です。そうした価値観からすると、子どもは半価値の存在、 いや反価値の存在なのでしょう。 しかし主イエスはそうした弟子たちの行動・姿を見て憤り、「子供たちを わたしのところに来させなさい.神の国はこのような者たちの者である。 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、 決してそこに入ることはできない。」と言われ、子供たちを抱き上げ、 手を置いて祝福されたのです。 サッカーの試合で選手は子供と手をつないで入場してきます。 なぜでしょうか?サッカー選手と一緒に入場する子供たちは エスコートキッズと呼ばれていて、サッカーで子どもたちはフェアプレーの象徴とされています。 また子供と手をつなぎ入場することによって選手たちにフェアプレーを誓わせるという意味もあ り、選手も子どもたちと手を握ることにより、これから激しいプレーをする選手たちに冷静さを 取り戻す意味もあります。小さな子どもを抱えて入場するときは自分の子どもの場合が多く、 「父親の頑張っている姿を子どもに見せたい」「子どもと一緒に入場したい」「やっと夢がかな えられた」という思いもある。両手に子どもと一緒に入場するときはキッズ募集にたくさん人が 集まりすぎたということのようです。 子どもから学ぶことは多いですね。ハッとさせられることの連日です。反省しましょう。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
7月主題の聖句 「子供たちをわたしのところに来させなさい。 妨(さまた)げてはならない。」 マ ルコによる福音書10章14節 園長 西 田 直 樹 7月に入りました。2014年度一学期は7月18日(金)までです。 その後は長い夏休みに入ります。夏休みの諸注意を守って楽しくお過ごしください。 マルコによる福音書・マタイによる福音書・ルカによる福音書が同じく「主イエスが 子供を祝福する」という記事を扱っています。長短や用語の違いは多少ありますが、 ほぼ同じことを扱っています。 主イエスにとって、そして福音書記者にとって「子ども」はどうでも良い存在ではないのです。 その記事によると主イエスに触れて頂くために主イエスが話されている現場に親が 子供(乳飲み子)を連れてきたのです。その光景を見ていた弟子たちが叱りつけたのです。 たぶん「こんな所に子供を連れてくるなどは非常識だ」、「周りに迷惑を掛けることを考え ないのか」、「子供が来る場所ではない」と口々に言ったのでしょう。 行く手を立ち塞ぐ弟子たち、思わず子供を抱きかかえ後ずさりする親たち。 その時、主イエスは子供たち(乳飲み子)たちを呼び寄せたのです。 「おいで、おいで、こっちだよ」と招ねかれたのです。 大人の世界は子供を非情に締め出し、追い出し、排除するのです。 「ここはおまえたちの来るところではない!」「子どもは足手まとい、邪魔者、 迷惑者だ」と顔をしかめる大人の社会。 そこは整然とした、規律のある、秩序のある、常識に富んだ社会です。 しかし愛や思いやりや優しさはない世界です。大人の世界は弱肉強食の生活、 差別選別の世界です。そうした価値観からすると、子どもは半価値の存在、 いや反価値の存在なのでしょう。 しかし主イエスはそうした弟子たちの行動・姿を見て憤り、「子供たちを わたしのところに来させなさい.神の国はこのような者たちの者である。 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、 決してそこに入ることはできない。」と言われ、子供たちを抱き上げ、 手を置いて祝福されたのです。 サッカーの試合で選手は子供と手をつないで入場してきます。 なぜでしょうか?サッカー選手と一緒に入場する子供たちは エスコートキッズと呼ばれていて、サッカーで子どもたちはフェアプレーの象徴とされています。 また子供と手をつなぎ入場することによって選手たちにフェアプレーを誓わせるという意味もあ り、選手も子どもたちと手を握ることにより、これから激しいプレーをする選手たちに冷静さを 取り戻す意味もあります。小さな子どもを抱えて入場するときは自分の子どもの場合が多く、 「父親の頑張っている姿を子どもに見せたい」「子どもと一緒に入場したい」「やっと夢がかな えられた」という思いもある。両手に子どもと一緒に入場するときはキッズ募集にたくさん人が 集まりすぎたということのようです。 子どもから学ぶことは多いですね。ハッとさせられることの連日です。反省しましょう。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
![]() ![]() ![]() 6月主題の聖句 「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」 使徒言行録1章8節 園長 西 田 直 樹 キリスト教には3つの大きなお祭りがあります。一つは皆様もよく ご存じのクリスマスです。主イエスの誕生をお祝いするお祭りです。 多くの国では12月25日をクリスマスと定めていますが、ロシヤ正教・ ギリシャ正教では1月6日としています。 もう一つのお祭りは復活祭イースターです。 主イエスが十字架で死に、3日目に復活されたことを祝うお祭りです。 復活祭は移動祝日といって日にちが一定ではありません。今年は4月 20日でしたが、3月の年もあります。年度で言うと同じ年度で二回 イースターを迎える年もありました。 最後に三つ目のお祭りは聖霊降臨祭ペンテコステと言います。 イースターから50日目が聖霊降臨祭となり、従ってペンテコステも 移動祝日となります。 今年度は6月8日が聖霊降臨祭ペンテコステです。本来6月第二 日曜日は「花の日・子どもの日」としており、そこにペンテコステが入 り込んできたというわけです。片瀬教会では6月8日を聖霊降臨日 ペンテコステの礼拝を守り、6月15日を「花の日・子どもの日」として 幼稚園・教会学校・教会合同の礼拝を計画しています。別紙にてご案内します。 幼稚園では6月4日(水)においじいさん・おばあさんをお招きして 「花の日・こども日」の礼拝をします。 6月18日の幼稚園礼拝において聖霊降臨日ペンテコステのお話しをいたします。 さ て使徒言行録1章8節には「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力 を受ける。そして、エルサレムばかりではなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、 地の果てに至るまで 、わたしの証人となる。」とあります。 復活のイエスに出会い弟子たちは喜びましたが、そのイエスは天に上げられ見え なくなってしまいました。またもや愕然と天を仰ぐ弟子たちでした。 しかし50日目に不思議なことが起こりました。「五(ご)旬(しゆん)祭(さい)の日が来て、 一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から 聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、 一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、"霊”が語らせるままに、 ほかの国々の言葉で話しだした。」これが聖霊降臨ペンテコステの記述です。 聖霊が降ると弟子たちは力を得て主イエスの復活の証人として「エルサレムばかりではなく、 ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで」出ていって証しをしたのです。 それが教会の誕生となっていきました。ですから聖霊降臨日ペンテコステは教会の 誕生日とも言えます。 私たちは恐れ怯え、恐怖にとらわれる時があります。しかし聖霊が与えられ、勇気をいただく時、 大胆に、力をもって発言・行動することが出来るのです。 聖霊は私たちのエレルギーの原動力なのです。教会を作り、生み出す力なのです。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
月主題の聖句 「主は倒れようとする人をひとりひとり支え、 うずくまっている人を起こしてくださいます。」 詩編145篇14節 園長 西 田 直 樹 2014年度の保育が始まりました。入園式から19日間が経過しました。 順調な滑り出しです。まだ登園時にぐずる子どもさんがおられますが、 ご心配には及びません。 ゆっくり時間を掛けて状況の変化を感じ、味わい、慣れて頂ければ良いのですから・・・・。 「倒れようとする人」「うずくまっている人」と今月の聖書は語ります。 これを更に拡大して言うならば「落ち込む人」「くずおれる人」「閉じこもる人」 「耳をふさぐ人」「口を閉じる人」でしょうか。 そうした人々をひとりひとり支え、起こす。これも更に拡大して言うならば 手を差し伸べ、支え 、助け起こし、立ち直らせる。そうしてくださるのは主なる神様だと言うのです。 この新共同訳聖書では訳し出されていませんが「全ての」という言葉がついています。 「全ての倒れようとする人」「全てのうずくまっている人」をひとりびとり支え、起こしてくださる。 それが主なる神様ですと言います。 すべての人に目を配りつつ、しかもひとりひとりを支え、起こしてくださる、 それが主なる神様です、と言います。 子どもと子どもの影に隠れて「倒れそうになっている」「うずくまっている」 子どもはいないでしょうか。「落ち込み」「くずおれ」「閉じこもり」「耳をふさぎ」 「口を閉ざす」子どもはいなでしょうか。子どもがそうしたサインを影から小さく送り続けている、 そのサインを受信するアンテナの感度はどうでしょうか。」 保護者も教師も改めて点検しましょう。 でも保護者」も教師それ自身が「倒れそうになっている」「うずくまっている」 「落ち込み」「くずおれ」「閉じこもり」「耳をふさぎ」「口を閉ざす」こともありますよね。 アンテナがサインを受信しすぎて、アップアップになっていないでしょうか。 「全て」と「ひとりひとり」の間にあって右往左往しているのが実情ではないでしょうか。 感性と洞察力が要求されますが、私たちはそれらを持ち合わせていないのです。 自分のことで精一杯なのです。そんなわたしたちではあるのですが、 羊飼いであるイエスさま、あふれる愛の主イエスさまは、私たちが気づくことの出来ない 心の深みを先に知っていてくださり、そこに愛を注いでくださるのです。 私たちは主イエスによって支えて頂き、起こして頂いたその恵みを深く心に納めておきたい と思います。支え、起こしていただいた、あふれるばかりの主イエス様の愛に生き、 それを伝えられたらと願っています。 やっと軌道に乗ったのに、ここで連休が入ってきます。どうぞご家族でお楽しみください。 また緊張の連続であった子ども達がご家族と過ごすことによって「ホット」したひとときを過ごしてください。 ゴムは伸び放しでは切れてしまいます。緩めること、ゆっくりすることがリフレッシュの原動力でですね。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
年主題の聖句 「わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」 創世記28章15節後半 園長 西 田 直 樹 2014年度の保育が始まりました。進級・入園おめでとうございます。 教職員一同をどうぞ宜しくお願いいたします。 今年度の年主題は「あふれる愛-これからともに」、年主題聖句「わたしは、 あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」(創世記28章15節後半)です。 創世記28章15節全体は「見よ、わたしはあなたと共にいる。 あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。 わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」です。 これはヤコブがベエル・シェバを立ってハランへ向かっていた時のことです。 夕方になって野原で一夜を過ごすことになりました。石を枕にしてヤコブが寝ていた時、 夢を見ました。 それは天から地に達する階段を神のみ使いが上り下りしている光景でした。 その時、主が傍らに立って言われた言葉がこれです。 ヤコブは双子であって弟でした。兄はエサウでした。兄エサウは巧みな狩人で野の人でした。 弟ヤコブは穏やかな人で天幕の周りで働くことを常としました。 父イサクはエサウを愛し、母リベカはヤコブを愛しました。 ある時エソウが狩りから帰ってきた時、美味しそうなレンズ豆の煮物の臭いが立ちこめていました。 空腹だった兄エソウは弟ヤコブから兄の長子の特権と引き替えにそのレンズ豆をもらい受けたのです。 また後日、ヤコブは母リベカと結託してエソウになりすまして 年老いて目が見えなくなった父イサクを騙し神さまの祝福を横取りしてしまったのです。 エソウは弟ヤコブを殺そうと思う位に憎みました。それを察知した母リベカはヤコブを逃亡させたのです。 ヤコブは兄エソウを二度に亘って騙してしまった後ろめたい思いをもって父イサクのもとから旅立ったのです。 その道中にヤコブは先の夢・約束の言葉を見聞したのです。 父の土地を去るとは特権や祝福から遠ざかることでした。 しかしヤコブは「あなたがどこへ行っても、私はあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。 わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない。」 との神さまの約束をいただくことが出来たのです。 その神さまは、神の御子、イエス・キリストを私たちにお与えくださり、 恵みの約束がほんとうであったことを明らかにしてくださいました。 ここに神さまのあふれる愛が示されています。 ヤコブは弱さやいろいろな問題を抱えていても、なお神さまの恵みの約束の中に生かされていきました。 それはわたしたちに対しても同様です。どのようなことがあっても見捨てない神さま、 どのようなことが起こっても約束を守る神さま、この神さまに信頼して、 この一年を共に歩んでいきたいと願っています。 この一年間が安全で、生き生きと、伸び伸びと遊ぶ幼稚園でありたいと願っております。 子どもの歓声が満ち溢れる幼稚園でありたいと願っております。 気付かないこと、見落としていること、忘れていることなど、どうぞご指摘ください。 改めてまいります。宜しくお願いします。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
片瀬のぞみだより(3月号) 日本基督教団片瀬教会付属 片瀬のぞみ幼稚園 今月の聖句 「希望はわたしたちを欺くことがありません。] ローマの信徒への手紙5章5節 西 田 直 樹 ローマの信徒への手紙の中で格調の高い部分のひとつが5章です。 「このように、わたしたち信仰によって義とされたのだから、わたしたちの 主イエス・キリストによって神との間に平和得ており、このキリストのお陰で、 今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずか希望を誇りにしています。 そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っていのです。 苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。 希望はわたしたちをくことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、 神の愛がわたしたちの心に注がているからです。」5章1~5節 みなさんにとって何が希望でしょうか。 片瀬のぞみ幼稚園は1950年(昭和25年)2月片瀬会の伝道と同時に設立・認可され 4月11日に開園しました。辻堂教会の春山長蔵牧師が中心となて片瀬に開拓伝道をされ、 辻堂のぞみ幼稚園と共に片瀬のぞみ幼稚園ができたのです。 なぜ「ぞみ」希望を幼稚園の名前に入れたのか、直接春山先生から伺ったことはないのですが 想像がきます。 春山先生一家は戦前アメリカにお住まいであり、戦時中はアメリカで大変ご苦労されいたと聞いております。 敗戦後、焦土と化した日本に引き揚げてこられ、夢も希望もなく生活ていた人々に イエス・キリストの福音を伝えると同時にキリスト教による幼児教育に邁進されのです。 ですから「のぞみ」幼稚園としたのでしょうか。 幼子が平和のうち、すくすくと成長ることを祈り願い、幼子に望みを託したのでしょう。 苦難は忍耐を生む。忍耐は練達を生む。練達は希望を生む。その希望は苦難・忍耐・ 練達をた結晶のようなものなのです。ですからその希望は欺くことも失望に終わることもないのです。 だからこそ苦難を誇ることが出来るのです。 砂漠に見る蜃気楼はしばしば人を欺き、遭難へと導きます。 わたしたちは蜃気楼のようなもの希望を託して、しばしば欺かれ、失望して、絶望へと誘われていきます。 しかし使徒パウロがいう希望とは「神の栄光にあずかる希望」です。 人間の勝利や成功ではいのです。「天国に宝を積む」希望です。 この世にあってそれが評価されるか、されないかは無係に天国で勝利の栄冠を得ることを一切の希望の源とするのです。 それは「忠実な良い僕」「且つ忠なる僕」よくやったと神様からお褒めの言葉をいただくことです。 (参照:マタイによる音書25章14~30節) 2013年度の保育を終えようとしています。溢れる愛、満ち溢れる神・キリストの愛を目に共に歩んでまいりました。 かけ声倒れに終わっていなかったかと反省しきりです。 わたした保育者・保護者側からの愛は十分でなく、見劣りするものであっても 神様がイエス・キリストをしてお示しくださった愛は満ち足り、満ち溢れ、子ども達を豊に成長させてくださいました。 イエス・キリストの十字架と復活に込められている神の愛は苦難を希望に代えてくださるのです. 2013年4月から2014年3月までの歩みを神様に感謝します。また子ども達に感謝しす。 また保護者・保育者に感謝します。2014年度ものぞみに向かってゴーです!。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
今月の聖句 「平和を保ちなさい。そうすれば、愛と平和の神が あなたがたと共にいてくださいます。」 コリントの信徒への手紙Ⅱ13章11節 西 田 直 樹 コリントの教会の信徒に宛てたこの手紙の著者は使徒パウロです。 特にコリントの信徒への紙Ⅱ10章から13章は「涙の書簡」と言って使徒パウロが直面していた 辛い、厳しい現実の中から涙ながらに訴えている手紙なのです。 その最後の最後に至って使徒パウロは次のように書き送っています。 「終わりに兄弟たち、喜びなさい。完全な者になりなさい。励まし合いなさい。 思いを一つにしなさい。平和に保ちなさい。 そうすれば愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。」 パウロが直面していた辛い、厳しい現実とは具体的にどんなことだったのでしょうか? パウロが心血を注いで開拓伝道をして作ったコリントの教会が分裂し対立していました。 パウロは正当な使徒ではないと主張する人々が分裂の種をまき散らかしたのです。 教会は大混乱していました。 パウロに向かって「手紙は重々しいが、実際に会ってみると弱々しい人で、 話もつまらない」とあからさまにパウロを非難する人さえ出てきたのです。 パウロは自分のことですから相手を説得することもできず、自分の無力さ、 弱さと対面して行ったのです。精神的にも肉体的にもダメージを受けてしまいました。 「わたしの身に一つのとげが与えられました。」とパウロが告白しています。 「とげ」とは具体的には何なのでしょうか?てんかんか鳥目か熱病か想像の域を出ませんが、 パウロはその「とげ」を取り去ってくださいと何度も祈り願ったのです。 その祈りは聞き入られることなく、逆に「わたしの恵みはあなたに十分である。 力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」という回答を得るのです。 一日も早く取り去ってほしいと祈り願った「とげ」を神からの「恵み」として受け止めよと言うのです。 「とげ」がなければ事態は変わる、いや変えられる。 この「とげ」さえなければすべては解決すると考えてきたのです。 しかし「とげ」の中に潜む「十分な恵み」に気づくようにと導かれたのです。 その「恵み」とはパウロの「弱さ」の中で発揮される「神の力」を発見することだったのです。 イエス・キリストこそ十字架の死という弱さの極みの中で神の力によって私たちの救いを作り上げてくださいました。 十字架の愛に気づかされたパウロは「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、 むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、 そして行き図まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。 なぜなら弱いときこそ強いからです。」 パウロが行き着いたところがここだったのです。その心境から最後の勧めが導き出されているのです。 「愛と平和の神が共にいてくださる」という言葉の背景にはこんな戦いがあったのです。 水鳥が鏡のような水面を静かに浮かび進んでいても、水の中の足は激しく水を掻いているのと同じでしょうか。 単調な、退屈な、変哲もない生活・家庭であってもそれが平和な生活、平和な家庭なのです。 皆が毎日自分の無力さ、弱さ、行き図まり、失敗、挫折にぶち当たり、戦っています。 平和な家庭に見えていても水面下では他人にはわからない戦いがあるものです。 それどころか我が子の問題を抱え込んで頭を抱えてしまうことの度々でしょう。 でもそれがどんなに絶望的であっても「愛と平和の神が共にいてくださいます。」 どんなことがあっても我が子を誇りましょう。 最後の最後、子どもの見方はあなたです。あなたしかいません! |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
今月の聖句 「おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ 自ら愛によって造り上げられてゆく。」 エフェソの信徒への手紙4章16節 西 田 直 樹 2014年 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い申し上げます。 三学を迎えました。余すところ1月から3月まで3ケ月ですが実質は2ケ月と半しかありません。 つき会や発表会を除いて大きな行事はなく静かに落ち着いてクラス活動が出来る学期です。 しかし進級・進学への期待の芽は芽生えており、その蕾を大きくしてきています。 1月の聖句の前後では「わたしたちは・・・・愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で、 頭であるリストに向かって成長していきます。キリストにより、体全体は、あらゆる節々が 補い合うこによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じ て働いて体を成させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです。 」 エフェソの信徒の手紙4章14~16節 イエスさま・神さまを礼拝し、賛美する教会・幼稚園はキリストの体です。 手や足や首や頭体に結び合っているように働きは違いますが、おのおのが補い合い、組み合い、 結び合い、ま自らも分に応じて働き、愛し愛されて成長してゆくのだと申します。 幼稚園では年少・年中・年長のクラスがそれぞれクラス形成をすると共に時には クラスの枠取っ払って異年齢同士が「補い合い、組み合い、結び合」っている姿に ダイナミックス(動態)を見ます。 それぞれが年齢・クラスを意識しながら、またそれらを乗り越えて「のぞみの子どもという 共通意識、一体感を高めてまいりました。「愛と慈しみの共同体」を形成してきているのす。 そして一人一人はその「愛と慈しみの共同体」の中で成長してきました。 「愛と慈しみの共同体」での一致は願望ではありますが、完全な一致は夢です。 「みんなちがて、みんなよい」(金子みすず)はずなのですが、それを許さない社会があります。 だから妥協和合が生まれ、排除が生まれるのです。 サークルや趣味のクラブやサロンや利潤追求社会ではれもありでしょうが「愛と慈しみの共同体」 では互いの要求を突き合わせ、競い合い、話し合い譲り合い、当面の、差し当たっての、 中間地を見い出していきます。 それは「ハリネズミのジンマ」にもあるようにより近づけば針で相手を刺し、自分も刺される。 しかし離れていれば寒が身に応える。すると何回かトライをしているうちに丁度良い距離を体得 していくことと同じす。 誰しもが不自由な、不便な・納得出来ない部分を抱えながら互いに一歩を譲れる、 それが長というものでしょう。またそれが愛ということでしょう。 さてその成長の軌跡、愛の軌跡を確認するのが三学期の大きな目標です。 各年齢に沿ってそ軌跡を見ることが出来るでしょう。それはまさに奇跡なのです。 そうした知恵は他のどんな知より尊く、全ての知識の基礎部分です。 自分の気持ちを抑えること、建て直すこと、怒りつつ手の怒りをも認めること、 それらが実現し展開されているのが「愛と慈しみの共同体」です!。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
2013.11.22 NO.5
~片瀬のぞみ幼稚園からのお知らせ~ お知らせ 6 平成25年度 園児募集について 2014年度の園児募集は、終了しましたが3,4,5歳児共に 若干名の空きがあります。 入園、転入をご希望の方は、電話にてお問い合わせください。 0466-22-4637 お知らせ 7 子育てサロン(いくらっこ、しらすっこ)のお知らせ <いくらちゃんとしらすちゃんママと一緒に簡単おやつ作り!> お料理上手の在園児のママさんが手づかみでパクッと食べられる簡単なおやつを教えてくれます。みんなで作って食べながらおしゃべりしませんか? *小麦粉・牛乳・たまごを使います。アレルギーのある方は当日お知らせ下さい。 日時:12月5日(木) 13:00~ 会費:100円 ・エプロン三角巾をご持参の上、お越し下さい。 ・いくら、しらす合同です。12/3(火)のしらすっこは予定通り行います。 ・3歳未満のお子様、保護者の方々対象のクラスです。是非、ご参加下さい。 ※わからないことやご不明な点がございましたら直接園にご連絡下さい。 片瀬のぞみ幼稚園 0466-22-4637 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
今月の聖句(11月) 「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。」 フィリピの信徒への手紙4章6節 西 田 直 樹 使徒パウロはフィリピの教会の信徒に向けて「・・・わたしが愛し、 慕っている兄弟たち、わたの喜びであり、冠(かんむり)である愛する人たち、 このように主によってしっかり立ちなさい。」と勧ています。(4章1節) その勧めの中でパウロは更に言葉を重ねて言います。 「主において常にびなさい。重ねて言います。喜びなさい。 あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。 主はすぐ近くにおられます。」(4章4~5節) だから「どんなことでも、思い煩うのやめなさい。何事につけ、 感謝をこめて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けさい。 そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとを キリスト・エスによって守るでしょう」(4章6~7節)と言います。 フィリピの信徒への手紙を書いた使徒パウロはこの手紙の中でくり返し 「喜びなさ」「喜んでます」と書き送っています。この教会にとって、 またパウロにとって何か喜ばしいことがあったでしょうか。 いいえ、喜ばしいことどころかその逆にパウロは災難・不幸・試練 そのものであ投獄の憂き目に遭っていたのです。 明日処刑されるかもしれない命の危険を身に感じながら、それでもなお喜び、 また我が事として心配し失望落胆しているフィリピの教会の信徒に喜びなさと言うのです。 どうして喜ぶことができるのでしょうか? それだけでなく、そうした状況下にあっても「しっかり立ちなさい」「思い煩うな」 「感謝のりをささげなさい」「求めているものを神に打ち明けなさい」と言葉を重ねます。 どうしてしっり立ち、思い煩わず、感謝の祈りをささげ、神を信頼し続けて心の内を 打ち明けることが出来のでしょうか。 その答えは5節にある「主はすぐ近くにおられます。」「主は近し」です。 主とはイエス・キリトのことです。十字架に掛かって死んだイエス・キリストのことです。 3日目に復活し、天にられたイエス・キリストのことです。そのキリストが再びやってこられる。 もうすぐ近くまでいでになっている。今か、今かと待ち望む生活の中で不幸、災難、苦難、 試練、挫折、失敗のだ中でしっかり立ち、喜び、感謝し、思い煩わないで良い、 祈りによって心の内を吐露できるたし、あなたがいると言うのです。 さて片瀬のぞみ幼稚園では運動会やお芋掘り遠足が終わり 、「かたせのぞみまつり」や収穫感祭やクリスマスが待ち受けています。 しかし中には入学・進級でご心配の保護者もおられるでしうか。 子どもの将来はどうなっているのか、地球環境は維持できているのか、 原発はどうなっいるのか・・・考え、心配したしたらきりがありませんね。 わたしたちは悲観主義者でも楽観主義でもなく、現状をありのままに受け止め、 なおかつしっかり立ち、喜び、感謝し、思い煩わず祈りのにおいて心の内を 打ち明けて生きていきたいと願います。 この子はこの子なりに成長し、生きて行っている、その事実を確認し 、「主は近し」と期待とりをもって我が子を見守っていく親でありたいと願います。 子育ての毎日の中で諦めたくなり放棄したくなり、子どもに辛く当たったり、 自己嫌悪に陥ったりするのは普通のことです。そ心の揺れを通してわたしたちの 真実な祈りが生まれてくるのですね。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
今月の聖句(10月) 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。」 ヨハネによる福音書15章12節 西 田 直 樹 イエス・キリストが十字架で処刑される前夜、弟子たちを前 にして主イエスは告別説教をしました。皆様がよくご存知の 「最後の晩餐」の一場面です。その告別説教の内容がヨハネ による福音書14~16章にまとめて編集されています。 その中に「イエスはまことのぶどうの木」のたとえ話があります。 「わたし(=イエス・キリト)はぶどうの木、あなたがたはその枝で ある。人がわたしにつながっており、わたしもその人つながって いれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなた がたは何もできないからである。」(ヨハネ15:5) イエス・キリストとわたしたちとの関係がぶどうの木と枝にたと えられています。そのつなりは有機的結合(命の通い合い)と言 われています。細い管を通して樹液が行き交い、酸素・酸ガスが 交差します。そこに成長と結実が与えられていくのです。 そのことを言葉を換えて主イエスは「愛」で説明します。 「父がわたしを愛されたように,わたしもあなたがたを愛してきた。 わたしの愛にとどまりなさい。」(ヨハネ15:9) わたしがあなたがを愛 したように,互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ15:12) 日本語では愛は一語です。英語でもLove一つの言葉です。 しかしギリシャ語では少なくと三つの言葉が使われています。 (厳密に言うと四つです。)しかもそれぞれ意味内容が異なって いるのです。 ①エロースの愛は情欲の愛であり奪い取る愛です。男女間の 愛もしばしば自分の欲望を満足せるだけの愛で終わることがあ ります。相手の持っている価値(美貌・スタイル・高学歴・地等々) を自分のものとする独占愛です。 ②フィリアの愛は親子の愛、友情の愛、隣人愛です。利害関係 の無いところで愛が成立するですが,どこか愛の代償・見返りを 期待しているところがあります。 ③アガペーの愛は神の愛、不変的な永遠の愛、自己犠牲の愛 のことです。 父なる神が子なるキリストを愛された愛はアガペの愛でした。 そしてアガペの愛で愛されたイエスはそのアガペーの愛をもって わたしたちを愛してくださったのです。だから、そのアガペーの愛 をもって互いに愛し合いなさい,そのアガペーの愛に留まれと言 われています。そのアペーの愛を「友のために自分の命を捨てる こと、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:13)と説しています。 愛には代償が要る。その代償を厭わずただひたすら相手のため に心を,身を,すべを献げて行く行為をアガペーの愛と言います。 マザーテレサさんのような愛の業です。 キリストがわたしたちを愛したように互いに愛し合いなさいと言 われますが、わたしたちは様がまたキリストがわたしたちを愛し てくださったようには愛せないのです。エロスの愛、フィリアの愛 でなら可能かもしれません。しかし神様・キリストの愛はアガペー の愛でした。愛せない,全く愛される資格も価値もないこのわたし を愛してくださった。そのアガペーの愛をもて互いに愛し合いなさい と言われているのです。だからこそ木なるキリストにつながり、命の 通い合いをすることによって可能になる世界です。キリストにしっかり つながりましょう! |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
片瀬のぞみ便り 9月の聖句 「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。」 レビ記19章18節 西 田 直 樹 旧約聖書の最初の部分を「モーセ五書」と言います。 すなわち創世記、出エジプト記、レビ記民数記、申命記までです。 また、それらを「律法・トーラー」とも呼んでいます。レビ記はそ中の一つであります。 しかしレビ記19章18節は律法の中の律法であります。 後のイエスの時代に律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねました。 「先生、律法の中でどの掟が最も重要でしょうか。」イエスはそれに答えて言われました。 「心を尽くし、精神を尽し、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。 これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。 隣人を自分のように愛しなさい。」(マタイ22章34~39節マルコ12章28~34節、ルカ10章25~28節) 律法・掟・戒めには文章化されているものと口伝(くちずた)えされたものとがあり、 その数は数え切ないほどあったようです。そのなかで、どの掟が最も重要であるかを 選び出すことは至難な業あったのです。 しかし主イエスは「神への愛」と「隣人への愛」を選び示して、 律法全体はこにかかっていると言われたのです。 自己愛は否定されがちですが主イエスは自己愛を容認しております。 極論ですが自分を愛しせない者がどうして隣人を愛することが出来るでしょうか。 まず正しく自分自身を受容し、愛すことです。 中には極端な自己嫌悪に陥っている人がおります。 自分が嫌いで嫌いでたまらないことも自が好きで好きでたまらないことも避けたいものです。 自分の良い部分も悪い部分も劣っている思われる部分さえも客観的に捉えて受け止める 冷静さと余裕をもつことが隣人(子ども)の欠や過ちを赦し、受け入れることが出来る道なのです。 対人関係に悩む人が多いです。なかなかスムースに進められないし、 新たな関係を結ぶこと困難を極めます。自分が傷つき、泥をかぶる覚悟がないと 対人関係は深められません。自意識剰では対人関係を切り結ぶことはできないのです。 神さまの存在、イエス・キリストの愛に触て初めてその糸口をつかむことが出来ます。 でもその道は険しく、長いのです。「自分を愛するうに隣人を愛しなさい」という勧めを 感謝して受け止めていきたいものです。 長い長いそして暑い夏休みがやっと終わって二学期が始まりました。 これからお母さんの夏みと言いたいところですが、次々と行事に追われていきますね。 二学期は本当に行事の多い学であり、それに連れてお母さんが幼稚園においでになる 機会が多くなることでしょう。あまり無理なさらないでください。 今年度初めて夏休み期間中も「あずかり保育」を実施しました。 ご利用頂いた方々には喜ん頂けたかと思いますが、保育者は大変だったと思います。 利用者はそれほど多くはなかったのすが、長時間、酷暑の中、事故怪我なく子どもと 共に過ごすことができました。感謝です。幼園では子育て支援の一環としてお手伝いを させていただいております。今後もご要望に出来るり応えてまいりたく願っております。 二学期の間も、お世話になることが多いと思いますが宜くお願い申し上げます。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
片瀬のぞみだより(7月号) 今月の聖句 あなたがたは神に愛されている子供です。 エフェソの信徒への手紙5章1節 エフェソの信徒への手紙5章1節は「あなたがたは神に愛されている子供ですから、 神に倣(なら)者となりなさい。」とあります。神に倣う者となるようにと勧告するその根 拠・理由として「あたがたは神に愛されている子供だからです」が勧められています。 倣う、模倣する、真似る、イミテーションは必ずしも良い意味で使われていません。 しかしテン語でイミタテオ・クリスティという言葉があります。訳せば「キリストにならい て」となります。これはトマス・ア・ケンピスが『キリストにならいて』という古典的名著を 出してから躍注目された言葉です。 キリストのように生きる、キリストだったらどうされるだろうか、キストに聴従すること等 がこの言葉の関連で考え出され、また実戦されています。 わたしたちは自分の判断を絶対化しないまでも正当化しがちです。しかしその前に 一呼吸をいて「キリストだったらこの場合どうされるだろうか」「キリストだったらその 場合何と言われだろうか」と判断基準を他に、キリストに置いてみるのです。 もちろんイエス・キリストは過去の人物です。しかも2000年以上も昔の人です。 しかも聖書に(新約聖書)に描かれているキリスの生涯は断片的で短いのです。 それでも私たちはそのキリストを完全に真似ることができないです。キリストは高い 理想、到達不可能のお方です。だからこそキリストに一歩でも、いや半歩も近づきた いと多くの全世界のキリスト者も非キリスト者も様々な努力がなされています。 神に倣うことは具体的にはキリストに倣うことなのです。 ではなぜ、どうしてそんな努力をするのか、またそんな努力ができるのかと言うとそれは あなもわたしも皆が神に愛されているからです。 自分は一度も神に愛されているとは思ったことも感じたことも、考えたこともないと言われ る方が多いでしょう。むしろ反対に自分は神に愛さていないのではないか、と思うことがある。 「神に愛されていると言うのならば、なぜこんなに不幸なの、なぜ苦しめられ、謂われない 非難を受けるの、不条理なことばかりです!」と悲鳴にい声が聞こえてきます。 確かに災害・災難・災いが多く、それらに脅えて生きている私たちです。 しかし、だからと言ってわたしの人生や私たちの世界は真っ暗なのでしょうか。 希望を抱くとが全くできないのでしょうか。 泥沼に咲く一輪の蓮の花、その蓮の花に希望を託して私たち生きているのでは ないでしょうか。泥沼ばかり見ていれば絶望しかありません。一輪の蓮の花が 神の愛、キリストの愛です。 ここで「あなたがたは神に愛されている子供です」に注目しましょう。 子どもには愛は必要可欠です。愛情不足で育った子どもは集中力が無い、 表情が硬い、気持が安定していない等々われています。子供は愛される存在です。 愛の中で育ちます。愛情たっぷりに育てたいものです神様は私たちの為に、 私たちに代わって神の子イエス・キリストを十字架にかけて神の愛を与てくださいました。 私たちは神の愛をたっぷり与えられている神の子なのです。だから私たち日々新しくされ、 感謝の出来る日々を送ることが出来るのです。 神様に対してまた誰に対して『ありがとう』が言える人間になりたいですね |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
片瀬のぞみだより(6月号) 日本基督教団片瀬教会付属 片瀨のぞみ幼稚園 今月の聖句 「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、 神と人とに愛された。 ルカによる福音書2章52節 園長 西 田 直 樹 主イエスの誕生物語はマタイによる福音書とルカによる福音書にありますが、 その後のイエスの成長記録についてルカによる福音書2章41~51節に12才の イエスとして描かれているだけです。12・13才とはユダヤ人成人男性としてユダヤ 社会や宗教集団の仲間入りを許可される年齢です。それ以降30才のイエスの公 生涯までの記録は全く空白です。 0才のイエスについてはルカによる福音書2章40節で「幼子はたくましく育ち、 知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。」とその成長を要約しています。 12才のイエスについてはルカによる福音書2章52節で「イエスは知恵が増し、 背丈も伸び、神と人とに愛された。」とその成長を要約しています。 イエスの先駆けである洗礼者ヨハネについてはルカによる福音書1章80節で 「幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。」 とその成長を要約しています。 祭司エリに仕えた少年サムエルについてはサムエル記上2章26節で 「一方、少年サムエルはすくすく育ち、主にも人々にも喜ばれる者となった。」 とその成長を要約しています。 主イエスや洗礼者ヨハネもサムエルもその生涯の節々で似通ったフォーム(定式) でその成長歩みを要約するのが一般的であったのでしょうか。 ※ ※ ※ ※ ※ ※ 2章40節の「たくましく育ち」と1章80節の「健やかに育ち」は同じ言葉が使われていて 「強なる」と言う意味です。親は我が子が身も心もたくましく、健やかに、強く成長して 欲しいと祈り願うものです。背丈が伸びることは目に見える成長のしるしです。 親は我が子の背丈が伸びて親よりも高くなることを喜び祝うものです。 「知恵に満ちる」「知恵が増す」と言われていますが、知恵と知識は違います。 知識偏重の世にあってますます悪が蔓延(はびこ)っています。 しかし箴言9章10節で「主を畏れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは分別の初め。」 とあります。神を畏れ敬うことが知恵であり、神を知ることが分別であり、そうした知恵に満ち、 増し、分別を持つことが神の恵みに包まれ、神と人とに愛される原点だと言います。 「愛される者よりも愛する者になりなさい」と言われますが、愛されることも大切なことです。 神様からの愛、人からの愛を素直に受け止められること、「ありがとう」と感謝してその愛を 受け止め、受け入れられることが大切なのです。 6月は梅雨の季節です。あじさいが咲き誇っています。降った雨を吸い込んで木々は大きく 成長していきます。子どもの成長期はあっという間だと言われています。それは過ぎ去った者の 感想であって現在その最中にある者にとってはノロノロであったり、停滞しているとさえ錯覚するものです。 「わたし(パウロ)は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、 大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。」コリントの信徒への手紙一3章6・7節 神に知られていることを知ること、神に愛されている自分・他者を愛することから真の成長が始まります。 神による成長の脇にあって母の祈りは有機肥料のようなものです。愛情の肥やしをたくさん注ぎ込みましょう。 知識でなく知恵が増し加わるようにより多くの人々と関わり、喜び悲しみ、怒り、笑いを体験し、共有しましょう。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
今月の聖句 「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを 愛してくださったからです。 ヨハネの手紙一4章19節 園長 西 田 直 樹 新学期が始まって約20日が経過しました。静かに、落ち着いて、 スムースに滑り出しました園児数が少し減ったので、寂しい気持ちと 楽だという気持ちが複雑に交差します。 各クラスの談会や地域訪問を終えて、5月9日(木)より年少組の お弁当が始まるといよいよ本格的な幼園の生活が始動します。 折角軌道に乗りつつあるのにゴールデンウイークで逆戻りの感もありすが ジグザクして山に登っていくように「戻りつつ・進み、降りつつ登る生活」です。 さて5月の聖句はこのようになっています。 「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたち愛してくださったからです。」 各クラス懇談会ではコリントの信徒への手紙一13章13節「それえ、信仰と、 希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛でる。」 年主題「あふれる愛」について話があったことでしょう。 幼稚園の中が神の愛、キリスト愛でみちあふれることを願っています。 言葉としてではなく、態度・行動において神の愛、キストの愛がみちあふれて表現され、 具体化・具現化されることを願っています。 我が子を愛さない自分、愛せない自分、愛そうとしない自分がいることは 深刻な問題です。我が子が無邪気にあどけなくニコニコしていた乳児時代は 無条件に愛せたし、「この子のためならんでもいい」真剣にそう思ったのですが、 今は憎たらしいことを言い、嫌な部分を持った自分そっくりな子どもを 見せつけられていると、つい感情的になったり、言葉の暴力、物理的暴力訴えてしまい、 そんな自分を嫌悪し、かわいい寝顔の我が子に涙ながらに赦しを請うのです。 目を覚まして{ママ-」と甘えてくる我が子に胸をなで下ろすのです。 ガス欠ならぬラブ欠(愛情不足)で育った子どもは一見大人じみているのですが、 友達関係築きにくく、集団にとけ込みにくいようです。 愛された経験の薄い子どもは愛することを知りせん。 子どもたちがお母さん役、子ども役を演じて赤ちゃん遊びをしている姿を見ていると そ子がどのようにして育てられてきたかよく分かります。 お母さんたちも自分が自分の母親に育られたように我が子を育てているのです。 厳しく育てられた自分はそれに反発しつつ我が子をしく育てているようです。・・・・・。 神様はその愛する子イエス・キリストをこの世に送ってくださいました。 罪に満ち溢れた汚心を持つ私たちのためにキリストを十字架にかけて 死なせるほど私たちを愛してくださいました。 駆け引きのない愛、純粋な愛、その人の持っている価値を愛する愛でなく 存在そのものを愛す愛、自分にとって利益にならないどころか迷惑を被り、 損害を受けるにもかかわらずその人をする愛、アガペーの愛、それが イエス・キリストに表された神の愛です。 神様はそのような愛私たちを愛してくださっているのです。 愛に値しない私たちを愛してくださっている神様、その神様を愛し、 隣人を愛するように求められているのです。 「愛は限りなく奪うものである」とあ文学者は言いましたが 「愛は限りなく与えるもの」です。いや限りなく与え続けるものです。 そんな愛をイエス・キリストを通して神様からいただいているのです。 その愛にお応えして愛すのです。神の愛をいっぱい吸い込んでその愛を 我が子に、家族に、隣人に注ぎ込んでいくこと求められ、期待されているのです。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
今月の聖句 「あなたの神、主を愛しなさい」 申命記6章5節 園長 西 田 直 樹 2013年度の保育が始まりました。入園おめでとうございます。 進級おめでとうございます.。わたしたちは片瀬のぞみ幼稚園の園 児・保護者・保育者として一緒に力を合わせて歩んでまいましょう。 どうぞよろしくお願いいたします。 ※2013年度の保育陣容は以下の通りです。 年少(ひよこ)組 18名、担任:眞中千枝美。 年中(すずめ)組 10名、担任:高橋友里恵。 年長(はと)組 26名、担任:横山流。 合計54名(4月1日現在)。 主任、副園長・草ヶ谷弘子。事務会計、あずかり保育・秋本一枝。 保育補助・北山千絵。園長・西田直樹です。 今年度から「あずかり保育」を充実させ、尚かつ時間を柔軟に対応 させて子育て支援をしていります。また夏休み・冬休み・春休み期間 中もあずかり保育をしてまいります。まずはなんも草ヶ谷までご相談ください。 「今月の聖句」とは聖書の一節を取り上げて、それを子どもたちは暗 唱します。保護者に向てその聖句の説明をこの「のぞみだより」に掲載します。 そしてこれは片瀬教会・片瀬のぞみ稚園のホームページに掲載されていますから、 誰でも、どこからでもアクセスできます。 「今月の聖句」は「あなたの神、主を愛しなさい」旧約聖書の申命記6章5節です。 この聖は有名で多くの人々が口で唱えている言葉です。その4節5節の全文は「聞 け、イスラエルよ我らの神、主は唯一である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を 尽くして、あなたの神、を愛しなさい。」です。「シェマー!イスラエール」と声高らかに 子どもも大人も高齢者も唱えいるのです。 「愛しなさい」は要求や命令ではないのです。むしろ招きや励ましに近いのです。 神様が先私たちを愛してくださっている。いつでも、どこでも神様に愛されている 私たちが安心して、様を信頼できる。この関係の中で「あなたの神、主を愛しなさい」 と勧められているのです。「なたの神、主を愛しましょうね」「あなたの神、主を愛さない わけにはいかないよね」と言った響きなのです。 「神」とは全知全能、唯一絶対、創造主のことです。大人の私たちは神の存在 をなかなか受入れられないのですが、子どもは単純、素直に神の存在を受け入れ、 信じ、委ねることができす。自分は小さく、弱い存在であることを本能的に知っている ので神様を信頼し、愛することできるのです。愛することは大切に大事にすることです。 第一番目にすることです。 片瀬のぞみ幼稚園に入園して最初に覚えることは祈ることです。神様に祈るのです。 神様にされているから、そして神様を愛するからその神様にお祈りします。礼拝の時 だけでなく、お事のとき、クラスのサークルの中で神様に祈ることを覚えていきます。 自分のことだけでなく気で休んでいるお友だちのためにも神様にお祈りすることが できるようになります。信じ、信合える中で愛は育っていきます。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
月の聖句 片瀬のぞみだより(3月号) 日本基督教団片瀬教会付属 片瀨のぞみ幼稚園 2013年3月Ⅰ日 「光の子として歩みなさい。」 エフェソの信徒への手紙5章8節 園長 西 田 直 樹 2012年度最後の月3月に入りました。もう少しで今年度は終わり、 年長のクラスは小学生にそして年中・年少のクラスは進級します。 例年変わらない光景ですが一人一人の子どもたちのこを思うとき、 また感慨深いものがあります。 「あんなこと、こんなこと、あったよね」そして「の中にAちゃんがいた!Bちゃんもいた!」 走馬燈のようにその光景が次々と浮かび上がってます。 卒業式になぜお母さんや教師たちはなぜあんなに泣くのかと思ってきました。 でも子どと苦楽を共にして、泣いたり、笑ったり、怒ったり、すねたりした場面を 共有してきた者にとては喜びと寂しさとがミックスしてこみ上げてくるのでしょう。 子どもとの関わり密度の深さ減によって感激度が違ってくるのでしょうか。 キリスト教保育誌の「月主題聖句」に従って「今月の聖句」の解説をしてきました。 それは単に書の説明に終わらず、少し保育にからませて書かせて頂きました。 時々感想を言って頂き、感謝しております。 さて3月の聖句の前後はこのようになっています。 「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。 光の子として歩みなさい光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。 何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。実を結ばない暗闇の業に加わらないで、 むしろ、それを明るみに出しなさい。」 これは使徒パウロがエフェソにある諸教会の信徒に宛てた手紙の一節です。 (著者はパウロでないという説もありますが・・・) パウロが第二次・第三次伝道旅行で作り上げたエフェソの会の信徒たちに 教えと励ましの手紙を書き送ったのです。その一節がこれです。 暗闇の子から光の子へと作り変えられたのだから光の子として、 光の子らしく生きていきなさいと勧めているのです。 光は光に注目を集めるものではありません。何ものかを明るく照らし出すものです。 特に暗を明るくするのです。光は自己目的化しません。 光は熱をもちます。発光ダイオードLEDはそれほど熱をもちませんが、 皆無ではありませんむしろ「ひよこ電球」は大量に熱を放出します。 冷め切った冷たい世界を暖めるそれが光です。 光は善・悪を明るみに白日の下にさらします。善悪の判断をきちんとします。 レーザー光線が手術に使われています。出血を少なくして病巣を切り取ります。 このようにてきますと光の働きの多様性に驚かせられます。 そして私たちが「光の子」としてそのような働が期待されているのです。 主イエス・キリストも「あなたがたは世の光である。・・・ また、ともし火をともして枡の下にく者はいない。燭台の上に置く。 そうすれば、家の中のもの全てを照らすのである。 そのようにあなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。」と勧めています。 光の子として明るく、元気よく、正しく生きていってください。祈っています。ありがとう。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
今月の聖句 片瀬のぞみだより(2月号) 日本基督教団片瀬教会付属 片瀨のぞみ幼稚園 2013年2月Ⅰ日 今月の聖句 「おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって 造りあげられてゆくのです。」 エフェソの信徒への手紙4章16節 園長 西 田 直 樹 2月に入りました。まだまだ寒さが残っていますが、春の兆しを感じる時もあります。 梅の花の蕾も大きくなってきました。沈丁花の香りにうっとりさせられる日も近いことでしょう。 今年度の保育日は後30日しか残っておりません。もうファイナル・ステージに突入したのです。 個人面談でも教師の口を通して「成長しましたよ」と言われ、母親は「ありがとうございます。 本当に成長したと思います」と答え、楽しい会話が交わされたことでしょう。 成長を実感するには時間と忍耐が必要でした。 でも北風に身を震わせながらも蕾を大きくしてきた梅の花のように 子どもたちは様々な困難に打ち勝って確実に着実に確固として成長の道を歩んできたのです。 どういう時に成長を感じ取ることが出来るのでしょうか。 背丈が伸び、靴が大きくなり、体重が増えたこともうれしいことですが、 精神的成長、心の成長を見て取ることも重要ですね。年齢差はありますが自分の意見を述べる、 自分と違った考えや意見を容認できる、他者へのいたわり、 優しい言葉かけ、譲る、我慢する等々が出来るようになってきたことは嬉しいことのですね。 2月の聖句を読んでいてこの文章だけだと主語や述語が何なのかわかりませんが 16節全体は以下の通りです。 「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、 結合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、 自ら愛によって造り上げられてゆくのです。」 もう少し前後から読んでいきますと未熟な者から成熟した人間へと成長する。 それは風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたりすることなく、 むしろ、愛に根ざして真理を語り、あらゆる面で頭(かしら)であるキリストに向かって成長すること。 キリストの満ちあふる豊かさにまで成長すること。 成長は個々人において実現していくのではなく、互いに補い合い、組み合わせられ、結び合わされ、 分に応じて働き、キリストの愛を実現することによって作り上げられていく共同体の成長に繋がっている、 と使徒パウロは説きます。 クラスには色々な子どもがおります。違った子どもたちがそれぞれの役割を果たしていますまさに補い合い、 組み合わされ、結び合わされ、それぞれの分に応じて働き、キリストの愛を現することによってより強い、 団結したクラス作りが出来ていきます。 個々人の成長はクラス成長の中にあります。そのクラスにいたから伸ばされた側面が実に多いのです。 クラスの仲間支え合いの中で励まされ、諫められ、分かち合って成長してきたのです。 2月3月はそうした成長を確認し、跡付け、辿ることの出来る時期です。感謝の時です。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
今月の聖句 「あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように」 園長 西田直樹 2013年を迎えることが出来ました。明けまして おめでとうございます。 本年もよろしくお願いいたします。本日より三学期が始まりました。 少しずつ日が長くなりましたが1月・2月は寒さの厳しい季節です。 特に昨年に続き厳寒の冬を過ごしております。ノロウイルスが猛威をふるっております。 伝染力が強いので学校・幼稚園・保育園・高齢者施設では警戒が必要です。子どもの健康に特に留意いたしましょう。 さて今月の聖句はフィリピの信徒への手紙1章9~10節です。 全体は以下の通りです。 「わたしは、こう祈ります。知る力と見抜く力を身に着けて、 あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことを見分けられるように。」 この手紙の著者パウロはフィリピにある教会の信徒へ書き送っています。 それはパウロの祈りでもあったのです。特にこの時パウロは獄中に監禁されていました。 獄中から書き送った手紙の中にパウロの祈りが含まれていたのです。 それはフィリピの教会の信徒たちを覚えての祈りでした。 「愛は盲目である」と言われますがその愛は本当の愛ではありません。 愛に加えるものは「知る力」「見抜く力」だと言います。 それらを加えることによって愛が更に、更に豊かになることを願っているのです。 豊かな愛は「本当に重要なことを見分ける(識別力)」のです。 冷静に、理性的に、落ち着いて、客観的に判断して果敢に行動に移す、それが愛であると言うのです。 現在、パウロが獄に捕らえられていることは汚点・弱点・マイナスではない。 この体験によって主イエスの教えをより多くの人々に伝えられる結果になったと、 この手紙の中で言っています。(1章12~14節) 私たちが望まないこと、避けたいこと、遠慮したいこと、そんなことをも用いて 神様の働きは前進していくのです。 様々な事態に遭遇する時、それだけで腰砕けになったりしゃがみ込んでしまわないで、 その事態を受け止め、受け入れ、その中で何が重要なのか、枝葉末節なことでなく 物の本質は何なのかを見極めることです。 子どもへの愛が溺愛でなく、冷たく裁く愛でなく、感情的になって叩いてしまう愛? でもないように、と願います。 そうした豊かな愛によって育まれている子どもは辛いこと、嫌なこと、悲しいこと、 つまらないことの中にも大切な物が隠されていることを知って、それを発見して前進していくことが出来ます。 さて3学期は短く、あっという間に卒業・進級を迎えます。 しかしこの短い期間こそ「まとめの時」であり、また「明日につないでいく時」でもあります。 充実した静かな時でしょうか。入学・進級への期待に胸をふくらませ、 元気よく走り回る時でしょうか。どのような時であってもその子らしい時を過ごして頂きたいと願っています。 しかし、保育者たちは子どもたちの安全を最優先にさせつつ、子どもたちに思いっきり幼稚園生活を 楽しんで頂きたいと願っています。またお子さんについて、幼稚園生活について何でも保育者にご相談ください。 保育者たちが一番生き生きとする時は子どもの話をする時です。 「・・・ちゃんがこうした、ああした」「・・・くんがこう言った、こんな返事をしてくれた」 何時間でも話しています。どうぞこの話の輪にお入りください。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
今月の聖句 12月 「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を 照らすのである。」 ヨハネによる福音書1章9節 園長 西 田 直 樹 12月を迎えました。あるいは初めて「本当のクリスマス」を迎えるご家庭 もあるのではないでしょうか。「本当のクリスマス」とはクリスマス・ツリーもサ ンタクロースもケーキやプレゼンのないクリスマスです。それは神のみ子 イエス・キリストの誕生を祝い、喜び、感謝するクリマスのことなのです。 さてイエス・キリストの誕生の次第を記しているのはマタイによる福音書 1・2章とルカにる福音書1・2章だけです。そしてヨハネによる福音書1章 では言(ことば)(ロゴス)が肉となった(受肉(じゆにく)という形でイエス・キリ ストの誕生について記しています。受肉のことをインカーネーション言いま す。カーネーションは花の名前でありますが、肉色、淡紅色をもさします。 神の御子が間となられて誕生したことを示しています。 光なるイエス・キリストが、まことの光で、世に来てすべての人を照らす のです。人間を照す光は暗闇の中で輝いていたのですが暗闇は光を理 解しなかったのです。 まことの光と偽りの光があるのです。11月中旬からデパートや商店街 はクリスマス一色に変します。イルミネーションが飾られていきます。一 般家庭でも家全体を電飾で飾りつけ、その美しさを競ってる家があります。 街や店や家がきれいに飾られ、光り輝き、美しいクリスマスのが流され るとなぜか私の心はかえって暗くなります。それらの光は偽りだからです。 まことのは私たちの暗い心を明るくしてくださいます。まことの光はお金 持や貧しい人をも、勝ち組やけ組をも、子どもも大人や高齢者をも、高 学歴の人やそうでない人をも、すべての国々の人を照らしてくださいます。 いやまことの光であるイエス・キリストは光の届かないところにこそ光を届 け、明るく照らし出し、希望を与えてくださいます。 しかし暗闇だけに長く居続けると、不義、不正、悪、偽りの世界に長く居 続けると光りを光と認識せず、かえって光を排除しようとします。それは土や 石の下に棲息するミミズやダンゴ虫ハサミ虫が暗闇を求めて逃げていくの に似ていますね。 光りなるイエス・キリストは明るさ希望・勇気を与えてくださいますが、同時にわ たしたちに潜む不義・不正・悪・偽りを暴き出し、裁きます。ですから光りを嫌 い、避けるのです。 クリスマスはそのまことの光りであるイエス・キストの誕生を祝うのです。 12月2日からアドベント待降節に入ります。それはイエス・キリストの誕 生を祝い、喜び、感謝するための準備期間です。アドベントの期間、毎日 曜日ごとにローソクに火を灯し、心のお掃除をしてイエスさまをお迎えする 準備を整え、4本目のローソクに火が灯されたらその日はクスマスです。 東日本大震災、福島原発事故、様々な事件事故、そして片瀬のぞみ幼 稚園では園児の怪我と悲しく・痛く・残念な出来事がありました。全ての 園児の上に、そして全ての保護者の上に、そして幼稚園教師・職員の上 にまことの光、明るさと希望と喜びを与て下さる主イエス・キリストがこ のクリスマスにおいでくださることを切に祈り求めています。 これまでの保育のあり方を省み、危険・安全の総点検をして改善す ると共に保育者の意識・思い心を見つめ直してまいります。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
片瀬のぞみだより(11月号) 今月の聖句 「無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください。」 ルカによる福音書15章9節 園長 西 田 直 樹 65才以上は高齢者だそうですが年齢に関係なく、とにかく覚えられない!、忘れる! 、思いせない!、無くしてしまった!、そんなもやもやした気持ちをもって私たちは毎日 生活していませんか?。この捜す時間と労力は何ともったいないことでしょうか。だらし ないから、きちんと片付けていないから、忙し過ぎるからといくら自分を責めてみても、 なかなか改まらないものですよね。 この聖書に出てくるご婦人は何歳か分かりませんが10枚の銀貨のうち1枚を無くし たと言うのです。決してその一枚を疎かに、粗末にしたのではないのでしょう。逆に大 切にした、大事にしまったためにどこにしまったのか分からなくなったのでしょうか。こ れは重要書類だと赤く印を付けて大事にしまい込んで、却ってどこにしまったのか分 からなくなり、提出期日が迫り脂汗をかいたことがありますよね。そして焦れば焦るほ ど見つからないものです。 この婦人は薄暗い家の中でともし火に火をつけて明るくして家の中を大掃除したの です。途中で諦めることなく、後から捜そうと後回しにすることなく、「見つけるまで念を 入れて捜す」というのです。髪を振り乱して夢中になって捜している姿の中に自分の姿 が二重写しになって見え隠れしてきますよね。 ましてや神様は失われた私たち一人一人を貴重な十枚の銀貨の一枚として、すなわ ち、かけがいのない存在として捜し求めて下さるのです。神様はこのわたしを途中で諦 めることなく、後から捜そうと後回しにすることなく、見つけるまで念に念を入れて捜し求 めてくださるのです。それが神の愛なのです。それは百匹の羊の一匹であれ、また二 人の兄弟の弟であれ、失われたものを熱心に捜し求める姿と同じです。 教育もそれに似たところがあって、どんな子ども・生徒であってその一人を捜し求め ていくのです。そのために明かりをつけること、家中を掃除すること、諦めることなく、 思い直して念に念を入れて一人の魂を捜し求めていくのです。そこに確たる確信が無 くても、実を粉にして情熱を傾けて子どもと向き合っていきます。寄り添っていきます。 時には対峙することもあります。 捜し求めることも重要ですが、ここでは捜し当てた時の喜びを喜び合える仲間がいる ことが何より重要なことなのだと言っています。「無くした銀貨を見つけましたから、一緒 に喜んでください。」 そうです。喜びや悲しみを分かち合える仲間がいることの重要さです。喜びを分かち 合える仲間がいる時、喜びは倍増します。そして悲しみを分かち合える仲間がいる時、 悲しみは半減します。 私たちにはそのような仲間として神様やイエス様や友が与えられています。 先日芋掘り遠足に行ってきました。芋畑で子どもたちは一生懸命にお芋を捜し、手で 掘り、動かして、引っ張り、掘り上げたものです。お芋の収穫の多い少ない、お芋の大 小にかかわらず、我が子がそんなに苦労してお母さんのもとに持って帰ってきた収穫を 子どもと一緒に喜んでいただけたでしょうか。喜んでくれたお父さん、お母さん、お兄ちゃ ん、お姉さん家族がいることはなんと幸せなことでしょうか。 今、運動会でいただいた「こま」に挑戦中です。こま糸をかけるところからです。なかな かうまく巻くことが出来ません。先生や友達に巻いてもらってこま回しに挑戦です。なか なかうまく回ってくれません。でも少しずつ回り出した時、自分以上に喜んでくれる友が いるのです。そんな友に励まされて、もっと勢い良く回せるようになっていきます。共に 喜び共に泣くことが共に生きることです。 。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
片瀬のぞみだより 10月号 今月の聖句 「種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人 は知らない。」 マルコによる福音書4章27節 園長 西 田 直 樹 今月の聖句の福音書の前後は以下の通りです。「神の国は次のようなものである。人 が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうし てそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、 次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の 時が来たからである。」マルコによる福音書4章26~29節 実りの秋、収穫の秋です。私たちは労働の結実としての実りを喜び、感謝します。 しかし、なかなか私どもの期待や願い通りに実りが得られないことも事実です。失望 落胆させられることもしばしばです。収穫直前の台風や洪水や自然災害で豊かに実っ た実りが台無しになってしまうこともあるのです。それでもめげずに次の年も種を蒔 き、せっせと世話をし続けるのです。 植物の成長と子どもの成長は似たところがあります。どんなベテランの教師でもそ の子がどのようにまた何時、成長するか分からないのです。ただ信じて、委ね、待つ のです。しかし保護者も教師も何とか良い結果を得ようと焦り、子供に当たり、無理 な要求を突きつけてしまいがちです。 主イエスが言われるように「どうしてそうなるのか、その人は知らない」のです。 ましてや何時、成長するのかも分からないのです。ただじっとその時を待つしかない のです。待てないで土から苗を引き抜いてどれくらい伸びたか、大きくなったのかを 確かめないと気が済まない人がおります。そうした行為は大人の気持ちは満足させて くれますが苗そのものの成長の妨げになっているのです。それを繰り返していればや がて苗は枯れてしまいます。子どもの成長をじっと待つこと、励ましつつ見守ること、 そして祈ることです。子どもの全てを知りつくすことが親の責任だと考えておられる 方がおられます。しかし親でも子どもの知らない部分があっても良いのではないでし ょうか。別の人格として尊重し、信頼することです。子離れ・親離れはこの知らない 部分が拡大していくことから始まるのではないでしょうか。 成長発達には順番があります。種、芽、次に茎、次に穂、そしてその穂には豊かな 実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。この順番を狂わせることは出来ません。 芽の次に穂や実りを期待することは性急です。種は順番通りに成長するものです。人 間も同様です。「発達の筋道」とも言いますが、その速度は異なっていても発達の筋 道はどの子でも同じなのです。「発達 の筋道」には節(ふし)があります。その節(ふし)を素早く通 り過ぎる子もいればその節(ふし)で引っかかって時間を要している子もいるのです。しかし どの子でも同じ「発達の筋道」をたどって成長していきます。どの節で引っかかって いるのか、それを発見し、励まし、手助けするのが親や教師の仕事です。 高くジャンプをするためには深く沈み込み、力を蓄えて一気に上に向かって飛び上 がります。この深く沈み込み、力を蓄えている時こそ大切な時です。それは外からは 成長が止まったか、あるいはむしろ退歩している様に思えるのです。そんな時、忍耐 して待ちましょう。邪魔にならない程度に声をかけ、励ましましょう。 成長とは一直線に右肩上がりではないのです。むしろ螺旋階段のように同じ所をぐ るぐる回っているけれども少しずつ上がっているのです。目の前のことだけで判断せ ず、長い目で見ることです。出来て当たり前と言うことはないのです。子どもなりに 努力している、がんばつている、柔らかい心で戦っている、そこのところを認めてあ げて下さい。褒めて、励ましてあげて下さい。お父さん、お母さんの一言がどんなに 子どもを力づけ、勇気を与えることでしょうか。収穫の量は親の流した涙、祈り、励 ましに比例するようです。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
片瀬のぞみだより 8月号 今月の聖句 「いかに幸いなことでしょう。あなたによって勇気を出し、 心に広い道を見ている人は。」 詩編84篇6節 園長 西 田 直 樹 梅雨が明けていよいよ猛暑の到来です。同時に幼稚園は7月20日より長い夏休み に入ります。国内・海外格安航空券が登場して、これまででは考えられない安値で旅 行ができるようになりました。機内が少し狭く、様々なサービスが付いていなくても、ま た成田からの発着であってもあの安値は魅力です。昨年「ジェット・スター」でオースト ラリアに行きましたが、十分空の旅を楽しむことができました。安全に、早く目的地に 到着するのであれば、ますます過当競争が激しくなっていくことでしょう。 さて人生を旅に例えることができます。わたしたちは最終ゴール・目的地に向けて旅 を続けているのです。その途上で様々な出会いがあり、また別れもあります。喜びの 絶頂もあれば、悲しみ・苦しみ・悔しさに触れる時もあります。 特急列車や飛行機のように早く飛び回る時期があります。急行や快速列車で次々と 鈍行列車を追い抜き、通過駅が多く、それでも車中で携帯やPCで連絡を取り合っている。 働き盛り、疲れを知らずで突っ走っています。 しかし定年近くになり、各駅停車の鈍行でゆっくりと旅を続けます。長い待ち合わせ時 間があったり,時間調整で停車しています。べつに先を急ぐ旅ではないので、ゆったりと 景色を眺め、駅弁を食べ、見知らない方と会話が弾み、新しい発見が多い旅。しかし、 終わりが近いことを薄々と予感させる旅。仲間が減り、新しい挑戦が億劫になり、回想の 毎日が続く。 そんな旅でしょうか。 今は子育ての最中。時の過ぎゆくことも忘れて、家事に没頭されていますね。話も関心 も子どものことだけ。家を離れて、少しはお洒落をして、おいしいお食事をして、うっとりし たいけれども、それは夢の夢。せいぜい仲間とカラオケでお酒を飲み、奇声を発して騒ぐ。 (失礼!)けれどもその後が妙に虚しくなったり・・・。「わたしの人生って何?」雑巾のように ボロボロになっていくだけか! 話が暗くなってきました。でも人生は捨てたモノではない。結構いいこともあるよ。楽しい こともあるぜ!。幸せを実感できる時もあぜ!。「わたしはこのために生まれ、だから、こ こにいるのよ!」 そんな充実感に包まれるときもありますよね。 詩編の詩人はこのように詠っています。 (詩編84:5・6・13) 「いかに幸いなことでしょう、あなたの家に住むことができるなら、まして、あなたを賛美す ることができるなら。いかに幸いなことでしょう、あなたによって勇気を出し、心に広い道を 見ている人は。 ・・・・・・・ 万軍の主よ、あなたに依り頼む人はいかに幸いなことでしょう。」 危険な長旅の最中、その最終ゴールは神と共に住み、神を賛美すること、それを憧憬して旅 を続けている。どんな荒野や砂漠であっても神が共に歩んでくださるから勇気が湧いてくる。 「嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。」(7節)乾ききった無味乾燥なとき、ところを 泉とする勇気が湧いてくる。だから荒野や砂漠に大きな、まっすぐな道を作り、また見いだすこ とができるのだ。その道を通って神様がやって来て下さる。この空白地帯に神がやってきて下さ る。だから大路をまっすぐな道を汗を流し、涙を垂らしながら作ろう!敵なしの万軍の主なる神 さま、あなたに、あなたのみに依り頼み、深い信頼を寄せることのできる人はなんと幸せなこと でしょうか。 この夏休みの間、どうぞ私たちを守り、導き、支えて下さい。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
片瀬のぞみだより 7月号 今月の聖句 「主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、 魂を生き返らせてくださる。」 詩編23篇2~3節 園長 西 田 直 樹 真夏の7月に入りました。梅雨が明けると灼熱の太陽が顔を出します。子どもたちは元気 に額も鼻の頭もそして頭の中まで汗びっしょりになって遊んでいます。汗を拭き、家からもっ てきた水を飲み「ホット」する顔も愛らしいものです。 さてだいぶ前のことですが、前の幼稚園に障がいをもったお子さんが在園しておりした。か れは登園してくると水道に飛んでいき、蛇口をひねり、水を出すのです.勢いよく出てくる水の 感触を楽しんでいたのです。1・2週間の間は教師たちもニコニコと見守っていました。しかし それがあまりにも長く続くのに見るに見かねて「・・・・ちゃん!やめようね。お水がもったいな い!」と教師が止めに入りました。かれはなぜ止めさせるのだと言わんばかりに、さらに蛇口 をひねり、勢いよく水を空中に撒いたのです。 降園後、そのことが話題に上りました.既に何回もそのことで話し合ってきました。しかしあ る教師がかれが水を出すにはある意味があるのではないか。自分は彼の手をよく見ていたら 水の勢いを変えたり、水に近づけたり離したりして、微妙に異なる手への振動を確かめ、また その感触を楽しんでいるのだ。彼の身持ちの表現が水の勢いではないか、と発言したのです。 確かに奇声しか発さないかれの気持ちを思いはかっていたときでした。もったいないから、ど うやって止めさせるかにだけにしか教師の気持ちが行っていなかったとき、新しい視点に気づ かされた一瞬でした。 わたしたちは川のせせらぎ、海の波音を聞くと落ち着き、また眠りへと誘われていきます。そ れは母の胎内で羊水につかりながら聞いた音、また母の鼓動音とも似ているからだと言われ ています。生まれて間もない赤ちゃんが産湯につかり、手足をばたつかせてお湯(水)の感触を 味わったのです。そんな乳幼児体験が後々まで影響を及ぼしているのです。 * * * 「主はわたしの羊飼いである。わたしには何も乏しいことはない。」に続いて「主はわたしを青 草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。」とあります。青い空の 下で羊たちが草原で草を食べている姿はのどかな牧歌的風景です。平和そのものの中で羊飼 いと羊との信頼しきった姿がそこにあります。 しかし詩編23篇の作者は違った観点に立ってこれを描いております。それは飢えと渇きの中 にあり敵に囲まれ、死が目前に迫ってきている絶対絶命なピンチに立っている羊たち。 「もうだめだ!最悪だ!」と叫びだすそんなとき羊飼い(神様)が共にいてくださるから、大丈夫 ですよ。いや最善に導いてくださるというのです。 最善、最善が続いてしまえばもうそれは最善でなくなります.それが当たり前、当然になってし まいます。しかし最悪の中でこそ最善が与えられていることを知り、それを喜び、感謝出来るの ではないでしょうか。神様が共にいてくださり、わたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに 伴い、魂を生き返らせてくださる、そんな恵みを味わい知ることが出来るのです。最悪を最悪で 終わらせず、罪悪の中から最善の道に導いてくださる羊飼い(神様)がいてくださることは真実な ことです。 神関係は親関係・教師との関係・友達関係を土台にして育っていきます。信頼に満ち溢れた良 い人間関係は絶対者なる神への信頼へと導かれていきます。視点を変えて見直してみると思わ ぬ発見があるものですね。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
片瀬のぞみだより 6月号 今月の聖句 「わたしに従いなさい」と言われた。 マルコによる福音書2章14節 園長 西 田 直 樹 アルファイの子レビ(アルファイの子ヤコブ・マタイ)は収税所に座って税金を 集める徴税人でした。それは有料道路の料金所で料金を徴収している人に似 ています。でも料金所にいる道路公団の職員を憎く思ったり、軽蔑する人はい ません。しかし、レビのような徴税人は皆から快く思われていませんでした。い や嫌われ者、変わり者、悪い人と思われていました。なぜなら荷物や家畜を運 んでいると、人間一人いくら、荷物の中身によっていくら、家畜一匹につきいくら と課税し取り立てていました。払わない人はその道を通ることが出来ません。も ちろん他の道を通って進む方法もあるのですが、その道には強盗が襲い持ち 物も、着ているものまで取り上げられてしまうので、やはり税金のかかる道を通 らなければなりませんでした。そこは生活道路であり、一日何回か通らなけれ ばならない道だったのです。その度に税金を取られる、しかもその税金は自分 の国に入るのではなく支配国ローマに納められるものでした。その手先となって 税金を取り立てている徴税人レビ・マタイ・ザアカイらは嫌われていました。宗教 家ファリサイ派の学者先生からも「罪人」と呼ばれていました。 そんなレビに向かって主イエスが「わたしに従いなさい」と言われたのです。そ れは大先生が見込みのある弟子に向かって「わたしに従いなさい」と招く言葉と 同じでした。主イエスは皆から嫌われ、変わり者、悪い人、罪人と憎まれている 人をあえて選んで弟子へと召しているのです。 そして聖書はいとも簡単に「彼 は立ち上がってイエスに従った」と言うのです。なぜそれがレビなのか、または なぜレビは呼びかけに応えてイエスに従ったのか、そこら辺の説明はまったくあ りません。弟子に召され、それに従ったことが重要なのであってその他の人間 的な事情はいっさい排除されています。 アメリカの子どものあそびで"fallow me"というあそびがありました。まねっこご っことでもいいましょうか、先頭の子と同じ動作をします。先頭の子はまねできな いような危険な動作に挑戦していきます。後からついて行く者は後れをとっては ならないと必死でまねをしてついて行きます。そのうちまねが出来なくなり脱落す る子がでてきます。だんだん人数が減り脱落した子どもたちは声援を送り、盛り 上がっていきます。高い木に上り、屋根に上り、崖から飛び降り、川を飛び越え たりそれはそれはスリル満点です。 イエスさまはどんな人に対しても「わたしに従いなさい」"fallow me."と呼びかけ てくださいます。だいじょうぶ、やってごらんと私たちの前を歩いてくださいます。 私たちはイエス様の背中を見て歩けばよいのです。 6月21日・22日年長組はお泊まり保育で山梨県国民宿舎「富士緑の休暇村」 に出かけます。富士山5合目の遊歩道も歩きます。子どもも親も不安がいっぱ いでしょう。あるいは初めて親元を離れて寝泊まりをするお子さんもおられるこ とでしょう。でも大丈夫です。支え合える仲間そして教師への信頼が出来上がっ ていますから。そして私たちの先頭をイエス様が歩き、守ってくださいます。親子 共に無事に帰ってきた時の達成感、自信、満足感、感激は一生忘れないことで しょう。はと組の皆は少しずつ気持ちがお泊まりに、富士山に動いています。温 かく見守り、励ましてまいりましょう。 6月に入りました。親子遠足も終わり、一段落です。梅雨で部屋遊びが増える 頃です。少しずつ自分の気持ちを出し、ぶっかったり、悲しい思いをしたり、仲直 りをして喜び合えるときです。 5月29日に牧師館にかわいいお客さんがおいで になりました。ひよこ組ノ10名が来られて、お弁当を一緒に食べましょうとお誘い を受けました。わたしは喜んでお弁当をもって、はと組を通り過ぎ、すずめ組も 通り過ぎ、ひよこ組の部屋に入りました。全員テーブルについてお弁当の用意 も出来ていました。おいのりといただきますをして早速中身を見せ合ってお食事 でした。皆がお話ししながら楽しそうに食べている姿に大感激でした。残さずぱ くぱく食べているたのもしいひよこ組でした。子どもの成長の早さにびっくりさせ られました。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
片瀬のぞみだより 4月号 今月の聖句 「信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」 ヨハネによる福音書20章27節 園長 西 田 直 樹 入園・進級おめでとうございます!。遅かった春が訪れ、桜の花が咲 キリスト教会では4月8日(日)に復活祭イースターを迎えました。 トマスは主イエスによって選ばれ召された12使徒の一人でディディモ それから8日後にこの時は弟子たちの中にトマスもいました。そこに復 たぶんトマスの心もまたトマスと他の弟子たちの間にも平和でなかった 悔しさ、寂しさからあのように発言してしまったトマスの思いを全面的 さて新学期、子どもたちは色々な思いをもって入園し、進級してきまし した。幼稚園では子どもたちに信じ、信頼できる相手としての教師、仲間 を徐々に紹介して参ります。安心できるところ、心が平安になるところ、 そこが幼稚園であることを徐々に知って頂きたく願っています。至らない 者たちですがよろしくお願い申し上げます。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
片瀬のぞみだより 3月号 今月の聖句 「 一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。 だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」 ヨハネによる福音書12章24節 園長 西 田 直 樹 クリスマスは12月25日と決まっていますがイースター(復活祭)は移動祝日と いって決まっていません。今年は4月8日です。この前40日間がレント(受難節) と言って主イエスの十字架の苦しみと罪の赦しを覚えて過ごす時です。肉を絶っ たり、結婚式をしない静かな時です。 さて三浦綾子の『塩狩峠』という小説をお読みになった方もおられると思います が一人の鉄道職員長野政雄が犠牲になって列車転覆を未然に防いだ出来事を 取り上げて書いています。自己犠牲を美談で終わらせてはならないのですが、 犠牲的精神は尊いものです。 さて主イエスが十字架の死を目前にして十字架の死の意味を語った言葉として 「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多く の実を結ぶ」と語られました。確かに一粒の麦が地に播かれ、もはや原形を留め ないくらいに腐り果て、まさにその一粒は死ぬのです。しかしそこから新しい命が 誕生し、成長をして花を咲かせ、実を結び、しかも多くの実を結ぶのです。腐り果 てた一粒の麦は犠牲となって消えていったが決して無駄死にではない。それが原 動力となって大きな働きを果たすことができるのだと主イエスは語られたのです。 わたしたちは3月11日を再び迎えようとしています。この1年間で復旧・復興でき た部分も多少あるでしょうが大部分は手つかずの状態で放置され続けています。 原子力発電所に至っては事故の状況すら把握できず手探り状態が続いています。 放出された放射線は残留してわたしたちの生活を何十年に亘って脅かし続けてい きます。地震津波で亡くなられた方、行方不明の方、不便な仮設住宅の生活が続 き、前途を悲観されて自死される方、病気が悪化して病死される方等々目に見える 被害だけでなく、目に見えない被害がこれからも襲ってきます。なぜ、どうして、そし てどうなるのという問いに堂々巡りをされています。その痛み、悲しみ、苦しみに共 感しつつ、申し上げられることは「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のま まである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」です。貴い犠牲の上にわたしたちの現在 の生活があるのです。 わたしたちは2011年度の最終の月を迎えることができました。神様に感謝すると共 に皆様にも感謝致します。この3月で片瀬のぞみ幼稚園を卒業され、小学生になられ るはと組のみなさん!、進級して上の組になられるすずめ・ひよこ組のみなさん!思い 出の多い1年間でした。子どものいのちと安全を第一に歩んできましたが大きな事故・ 怪我がなく今年度を終えることができるかとは本当に感謝なことです。 しかしわたしたちは恐れて身を縮めて何もしないではなく、安全を図りつつ冒険をさせ、 様々な体験をして貰いたいです。自然の驚異に触れて、思い上がったわたしたちの思い を謙らせ自然と調和して生きる道を模索していきたいものです。 不十分な保育であったことを反省しつつ、思いはあっても実際にそこまで手が届かなか った部分が多々あったことを思い起こし、新年度に備えたく願っております。数々の点を お許し頂き、温かく見守り、協力を惜しまなかった皆様に感謝致します。また今後ともどう か片瀬のぞみ幼稚園を声援してください。教師・職員たちはまさに「一粒の麦」となって働 いてくださっています。子どもたちの元気をいただいて、がんばっています! ありがとうご ざいました。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
片瀬のぞみだより 2月号 今月の聖句 「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢える ことがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」 ヨハネによる福音書6章35節 園長 西 田 直 樹 「主の祈り」で「われらの日用の糧を、今日も与えたまえ。」と祈っています。 その「糧」とはパンです。ご飯を主食にしていればご飯でしょうか。毎日食べる 主食となる食べ物を今日も与えてください、と祈るのです。貧しい国の人々に とってはこの祈りは切実でしょう。逆に飽食の時代で余った、または賞味期限 を過ぎた食物を大量に捨てている国ではこの祈りの切実感はありません。 3月11日大震災・津波・原発事故を体験し、今なお避難生活を余儀なくされて いる方々の中には「われらの日用の糧を、今日も与えたまえ。」の祈りは切実 でしょう。確かに救援物資は必要満たされ、ほぼ終了したと聞いています。しか しそれでもなおこの祈りは切実感を持って祈られています。 「十字架を通って光へ」 ![]() 仙台市宮城野区蒲生・シーサイドバイブルチャペル (東北ヘルプより) 再建・復興に向けて気が遠くなるような歩みが待ち受けているのです。被災さ れた方々にとって3月11日で時間も日にちも止まっているのです。しかし離れた ところでは日夜刻々と変化が起こり、やがて3月11日、あれから1年を迎え、急 激に人々の記憶から遠ざかって行こうとしています。忘れ去り、取り残される方々 にとって「われらの日用の糧を、今日も与えたまえ。」の糧とは今や食物でなく精 神的な糧、心の支えであります。苦しみ、悲しみ、痛み、絶望している自分たちが 覚えられている、気遣ってもらっているそれが精神的な糧、心の支えです。 「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生き る」と主イエスは荒れ野の誘惑を受けた時、旧約聖書の申命記8章3節の言葉を 引用されて答えられました。人はパンでも生きるのです。しかしパンだけで生きる ものではありません。「武士は食わねど高楊枝」と精神論を言っているのではない のですが、食べ物があれば幸せとは限らないのです。「ことば」が必要なのです。 主イエスはわたしたちの命のパンです。精神的糧、心の支えです。愛のことばです。 イエス・キリストにあっては心が飢え渇くことなく、満たされるのです。不満やつぶや きはなく、感謝あるのみです。イエスは命のパンなのです。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
片瀬のぞみだより 1月号 今月の聖句 「あなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを 愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。」 エフェソの信徒への手紙3章17節 園長 西 田 直 樹 2012年 明けましておめでとうございます。本年もよろしくお願い致します。 寒さも本格的になる中、三学期が始まりました。子どもは「風の子」、元気よく外 で走り回っています。 さて使徒パウロがかつて訪れ、そこで伝道活動を展開したエフェソの教会の信 徒一人一人を覚えて神様に祈っています。ひざまずいて祈っています。今日でも ニーリングと言って大切な祈りをするとき、わたしたちはひざまずいて祈るのです。 大切な祈りの一つとして繰り返し祈っていますよ、と手紙をとおしてエフェソの教 会に知らせています。 神様に何を祈ったのでしょうか。エフェソ教会の信徒たちの内なる人を強めてく ださい。 心の内にキリストを住まわせてください。愛に根ざし、愛にしっかりと立つ 者にしてください。キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを理解させてください。人の 知識をはるかに超えている愛を知るようにしてください。神様の豊さのすべてにあ ずかるようにしてください。 いささか欲張ったお願いですが、それは自分のためにでなく、エフェソの教会の愛 する信徒一人一人のためにです。 親が子どものために祈り願うことことに共通しています。そこでも「しっかりと立つ」 ことが祈られています。自立・自律が教育の目的だと言われています。わたしもそう 思います。聖書では立つ・歩く・生きるは同じことです。しっかりと立つはしっかりと歩 くこと、しっかりと生きることなのです。しかも自ら自主的に主体的にそして自分を律 して立ち、歩き、生きることができるように、それを目的・目標にして教育に取り組ん でいるのです。 さらにキリスト教保育の目標は愛です。愛による愛への愛のための教育です。その 愛は神の愛であり、キリストの愛です。「キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを理解 させてください。」と祈っていますが、そうした祈りなしにはキリスト教保育は成り立ちま せん。人間の知識の限界を思い知らされた私たちです。そして「愛は勝つ」ことを痛感 させられています。 三学期は実質2ケ月しかありません。しかしこの時期こそ子どもの成長に驚かされ、 感激させられるときはありません。「おおきくなったんだ!」と。気持ちが徐々に進学・ 進級に向かって動いています。叱咤激励して自信を付けてもらい巣立っていって欲しい と祈り願っています。私たちの教育・保育がはたして目標に向かって進んだか問われる ときでもあります。現状に満足することなく、更に次の一歩めがけて邁進する片瀬のぞ み幼稚園でありたいと願っています。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
片瀬のぞみ幼稚園 2012年度 園 児 募 集 要 項 宗教法人日本キリスト教団片瀬教会付属 ★ 願 書 受 付 11月1日(火)午前7時 50分~8時(保護者のみ)に行います。入園願書と検定料3,000円を お持ち下さい。面接は、当日11月1日(火)9時から行いますので、指定された時間にお子様
とご一緒に来園下さい。 ★ 募 集 人 員 三年 保育 20名 二年 保育 10名 ★ 納 付 金 入 園 料(施設費含) 4・5歳児 110,000円(施設費20,000円) 3歳児 120,000円(施設費30,000円) 検 定 料 3,000円 保 育 料(年 額) 264,000円(月額:22,000円) そ の 他(年 額) 5,000円(冷暖房費として) ★ 保 育 時 間 月・火・木・金曜日 午前8時50分~14時 水曜日 午前8時50分~11時30分 但し、4・5月の月・火・木・金曜日は午前8時50分~13時30分 3歳児の保育時間は、多少異なります。 ★ 休 日 土曜日、日曜日、祝祭日(国や市で定めた休日)、創立記念日(6月10日) 夏休み、冬休み、春休み。また、土曜日に行事がある場合は月曜日が代 休となります。 ★ 入 園 許 可 入園許可証は、面接後お渡し致します。 ★ 入園金等の納付 ・ 検定料は、入園願書に添えて願書受付日に納付して下さい。 入園料は、11月1日(火)入園面接後に納付していただきます。入園許 いったん納付された入園料は原則的には返金致しません。 なお保護 ・ 当日入園料の納付に支障のある方は申し出て下さい。 ★ 障がい保育 ・障がいのあるお子様は11月1日以前にお申し出下さい。幼稚園の体制 ★同時入園・年長児途中入園児については減免措置があります。お尋ねく |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
片瀬のぞみだより 8月号 今月の聖句 あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。 ・・・信じない者ではなく、信じる者になりなさい。 ヨハネによる福音書20章27節 7月20日より長い長い夏休みに入ります。楽しい夏の計画を立て、期待に胸をふくら ませておられることと思います。しかし逆に子ども達に振り回される毎日が繰り返される ことを負担に思われているお母さんたちもおられることでしょう。子育てで一番いい時期 です。楽しくお過ごしください。 さて復活の主イエスを信じることのできなかった12使徒の一人であるトマスは「あの方 の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入 れてみなければ、わたしは決して信じない」と息巻いていたのです。トマスが不在の時、復 活の主が他の使徒に現れたという報告を受けたとき、イエスが十字架にかけられたとき の釘跡、槍の跡を実際に触って確かめなければ信じられないとトマスが口走ったのです。 「わたしは決して信じない」これはとても強い言葉です。断じて信じることはないという強 い決意の表明でもあるのです。実証しなければ信じないというのです。もう騙されない。一 つ一つを確認し、実感し、客観的にも証明されなければ信じないというのです。 私たちは3月11日以降政府の発表に騙され続け、今になって実はとんでもないことが 起こっていて、現在いや遠い将来にわたって健康に被害を及ぼすおそれのある事態が 生起していたことを知ったのです。原子力発電の安全・安心の神話は見事に覆されまし た。「わたしは決して信じない」我が子のために、我が身のためにと母親たちが立ち上が っています。まだまだ全容がわからないうちにとうてい安心・安全を信じることはできません。 信じられないトマスに対して主イエスは「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさ い。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる 者になりなさい。」と譲歩してまで信じる者になれと言われました。この主イエスの迫りに対 してトマスは「わたしの主、わたしの神よ」とお答えしたのです。 信じるとは信頼することです。信頼してお任せすることです。確認・実証・証明には限りが あります。後は信頼してお任せするしかないのです。信頼・信仰とは人間の知恵・知識・能 力を遙かに超えた方に委ね、お任せすることです。自分がぺちゃんこに潰されて主イエスを 「我が主よ、我が神よ」と信じ仰ぐことです。人間の知恵・能力を過信することなく、謙遜にな って全能者なる神に委ねることでしかないのです。「信じない者ではなく、信じる者になれ」 と言われました。それは楽観的でもなく、悲観的でもなく現実を受け止めていく現実主義で す。 一々確認することなく子どもを信じ、信頼し、委ねる、そこから子どもの自立が始まっていき ます。子どもの成長を神様にお委ねしましょう。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
片瀬のぞみだより 7月号 今月の聖句 主において喜びなさい。・・・・これは、あなたがたにとって安全なことなのです。 フィリピの信徒への手紙 3:1 聖書では「では、私の兄弟たち、主において喜びなさい。同じことをもう一度書きますが、 これはわたしには煩わしいことではなく、あなたがたにとって安全なことなのです。」と書か れています。 これは使徒パウロがフィリピの信徒に書き送った手紙の一節です。既に2章17・18節で 「わたしは喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様にあなたがたも喜びなさい。わ たしと一緒に喜びなさい。」と書きました。しかもその直前で「更に、信仰に基づいてあなた がたがいけにえを捧げ、礼拝を行う際に、たとえわたしの血が注がれるとしても、わたしは 喜びます。」と言うのです。パウロは自分自身を動物の犠牲の献げ物として献げられても、 殉教者として血を流すようなことになったとしてもパウロは喜ぶと言っているのです。そして そのような喜びを喜びなさいと言っているのです。 フィリピの信徒への手紙は「獄中書簡」と言われています。パウロはエフェソの獄に捕らえ られ、いつ殺されるか分からない状況にありながら獄中からフィリピの信徒に書き送ってい る手紙なのです。しかもそれは「喜びの書簡」なのです。 いくら喜べと言われてもそう簡単に喜べない現実があります。無理に喜べと言っているの ではないのです。そうではなく、主にあって喜びなさいと言っています。主に結ばれて、主 イエスとの深い関わりによって喜びなさいと言っているのです。パウロは主イエスが与えて くださった恵み、愛、慈しみ、救いのゆえに喜んでいるのだから、あなたがたも喜びなさいと 言っています。 子どもは喜びも悲しみもそのまま身体全体で表現します。いや喜びや悲しみを素直に表す からこそ子どもらしいのではないでしょうか。身体全体で感情表現を出来るのは子どもの特 権です。しかしその喜びや悲しみを押し隠している子どもがいることも事実です。それを教師 がいかに察知できるかが問われています。忙しさに振り回されて、そうした子どもを置いてき ぼりにしていないか、振り返って見る必要があります。そしてそれに気づいたとき子どもとそ れらの喜びや悲しみを共有することが出来るのです。共感することが出来るのです。 長い夏休みが目前に迫ってきました。暑さと計画停電と、放射能とで心が重くなりますが、 子どもの心の動きに注意して共感、共鳴できる7月を過ごしていきましょう。心に喜びと感謝 をもって過ごしましょう。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
片瀬のぞみだより 11月号 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
今月の聖句 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
信仰によってあなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つものとしてくださるように。 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
エフェソの信徒への手紙 3:17 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
使徒パウロがひざまずいて祈っています。それは通常の祈りではなく、特別な祈り なのです。なぜなら、ひざまずいて祈らざるを得なかったからです。 何を祈っているのでしょうか。自分自身のための祈願でしょうか。いいえ、エフェソ の教会の信徒のためにパウロが祈っているのです。祈りは自分のための祈りだけ でなく、他の人のための「取りなしの祈り」もあります。他の人を深く慮(おもんぱか)る がゆえに、より熱心に祈ることです。 ここでは具体的には「内なる人を強めてくださるように」「心の内にキリストを住まわ せてくださるように」「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように」「キリスト の愛の広さ、長さ、高さ、深さを理解するように」「神の満ちあふれる豊かさに満たさ れるように」エフェソの信徒のために祈っているのです。 私ども親が子どものために祈ることがあります。いや親として子どもにしてあげられ ることは祈ることしかないことに気付かされる時がくることでしょう。いくら親であっても 代わってあげることができないことがあるからです。 我が子が根を下ろすこと、少々のことでへこたれることなく、倒されることなく、しっか りと根を下ろすようにと祈ります。しっかりと立つようにと祈ります。ふらふらすることなく、 自分の足で立つことを祈ります。浮つくことなく地べたに両足で立ち、踏ん張れるように と祈ります。愛や人生や世界を広く、長く、高く、深く理解するようにと祈ります。表面的・ 平面的でなく、深く・立体的に物事を捉えられると祈ります。子どもの自立・自律を祈ら ざるを得ません。 子どもは親の祈りを背景にして成長していくものです。古神学者アウグスティヌスは母 モニカの祈りによって救われ、キリスト者となり、古カトリック教会の柱となりました。母モ ニカの祈りは涙と共に神様のもとに送り届けられたものでした。 収穫の秋を迎えました。豊かな実りの中に神様の愛を感じ取ることができます。神様は いろいろな形でわたしたちへの愛を示していてくださいます。しかし神様の最大の愛はイ エス・キリストの誕生です。クリスマスは神の愛の現れです。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
片瀬のぞみだより 9月号 | |||
今月の聖句 | |||
・・・しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう。 | |||
ルカによる福音書 5:5 | |||
主イエスが公生涯で最初に手がけたことは弟子を招くことでした。その中には 漁師シモン・ぺトロとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ がおりました。12使徒のうち4名が漁師であったことは驚きです。なぜ4人の漁 師がイエスの弟子になったか、その逸話がルカによる福音書5章1節以下にある のです。 かいつまんで説明しますとこの4人がガリラヤ湖で一晩中網を打って漁をして おりました。しかし、魚一匹もとれず、岸辺に戻り網を洗っていたのです。疲労 と戦い、不漁を振り返り、無口な彼らでした。その時です、イエスと群衆の一行 がやって来たのです。群衆が押しかけてきたので、イエスの立っている場所がな くなり、船に乗せて欲しいとペトロに頼み、イエスは船に乗って船上から岸辺の 群衆に話されたのです。あんなに群衆が大勢いたのに主イエスの声と網を洗う音 と風の音とカモメが鳴く声しか聞こえませんでした。漁師たちは聞くことなしに 耳に入ってくるイエスの話を聞き流しておりました。話が終わり、群衆は解散し て帰って行ったのです。しかし主イエスは船から下りようとせず、こともあろう に「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」とペトロに言われたのです。 ペトロはこのガリラヤ湖の水で産湯につかったようなもの、自分の庭先のよう にガリラヤ湖を熟知しており、その道のプロでした。それでも不漁でした。網を 洗い、引き揚げようとしていたのです。 ずぶの素人のイエスが「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」と命じた のです。シモン・ペトロは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何 もとれませんでした。」と厳しい現実を言い「しかし、お言葉ですから、網を降 ろしてみましょう」と答えたのです。そして驚いたことに網を降ろすと大漁で二 艘の船が沈みそうになったのです。そこでシモン・ペトロがイエスの足もとにに ひれ伏して「主よ、私から離れてください。わたしは罪深い者なのです」と言っ たったのです。 9月のテーマは「やってみる」です。初めからそれは無理と投げない、途中で やっぱり駄目だったと諦め、放棄しない、やってみよう!トライしてみる。再度 挑戦をすることです。それは丁度一晩中漁をしてもとれなかったプロのペトロた ちが沖に漕ぎ出し、再度網を打って漁をすることに似ています。 常識、社会通念、しきたり、実力、力量の壁を乗り越えて、新天地に挑戦をす ることが「やってみる」です。二学期は行事の多い学期です。ハードルを少し上 げて、それに挑戦してみましょう。臆病であったり、物怖じをしたり、心配性で あったりする子がおりますが、応援する仲間に支えられて、失敗を恐れない。失 敗してももう一回やってみる、息の長い努力を共に築いてまいりたく願います。 小さな成功が大きな成功に導かれます。小さな成功を力一杯喜びましょう。 今年の夏は本当に暑かったですね。小さな幼児さえも「あちゅい!」というほ どでした。二学期が始まりました。この夏教師たちは様々な研修を受け、力を蓄 えて再スタートです。どうぞよろしくお願いします。 |